ロック魂
Let There Be Rock
NO.81「薄いぜ」 2008−4−21
この数年、売れっ子作家の高杉良の小説「不撓不屈」を読んだ。
高杉は「金融腐食列島」や「呪縛」などの経済小説を得意としており、ベストセラーを連発し頻繁に映画化されたりしている。だから気にはなっていた。
「不撓不屈」は好きな言葉なので、まずこれを読んだ。時代は戦後。実際にあった事件らしく、登場人物はほぼ実名である。
飯塚毅という一介の税理士が国家権力と闘う、という話だ。それだけだとスケールがでかい、と思ってしまいそうだが、実は違う。
飯塚は自分の得意先の企業に「合法的な脱税」を指南する。私は税の専門外だからよく判らないが、法の抜け道と言う事だろう。それに怒った国税局が飯塚に対して大弾圧を加えるというもの。
主人公、飯塚はのっけから国税に呼ばれて平身低頭、謝りまくる。ここで読んでいるほうとしては不満がたまる、闘うんじゃないのか。しかし、この平謝りは後の大反撃への序章に違いない、と我慢する。
だが、その後も飯塚は自分でなんとかしようとせずに、大蔵大臣や代議士に援けを借りまくる。そして最後は他力本願で勝つ。自分は根回しをしているだけである。
この飯塚、作品中では頭脳明晰で仕事もできる男になっているが、人間的な弱さがまるで描かれておらず、セリフも見下したような厭味なものが多く、とてもヒーローとは呼べない。
国税側が完全な悪として描かれているが、この世に完全な悪などそう存在もしないし、また完全な正義も無い。
人物描写が平坦で作者の力量の無さを痛感する。
なぜ私がそんなつまらないものを紹介するのかといえば、売れているものばかりが良い物ではないという事を実例を持って示したかったからだ。
こんなものが売れて映画になるなんて、日本の知的センスの水準の低さを嘆いてしまうばかりである。

NO.80「ノーカントリー」 2008−4−8
米国映画「ノーカントリー」を観た。原題は「No Country For Old Man」で意訳すると「ジジイにゃ、もうこれ以上ついていけないよ」である。主人公の一人の警察官トミーリー ジョーンズの劇中のぼやきがタイトルとなっている。
作者のコーエン兄弟は私も注目し続けていたが、特筆して好きな作家でもなかった。彼らの作風は、不条理、非現実、冗談、意味不明が入り混じったようなかんじで、米国的ではないところが好ましかったが、わかりづらさが今ひとつ好きになれなかっただった。
この「ノーカントリー」はオスカーをとりまくった事で注目されているわけだが、いつもの彼らの平均的な作品だと思う。たった一つ、殺し屋役のハビエル バルデムの演技が平均点を遥かに超えていた。
麻薬取引のカネを横領した、カタギのだらしない男、モスがカネを取り戻しに来る殺し屋、シガーから逃げ続ける、というストーリーだ。そこに、常に後手に回るくたびれた警官がからまる。ただそれだけの話である。
モスはカネを奪っても少しもうれしくなさそうで、高価な買い物も豪遊もしない。武装しながらただ逃げるのみ。
シガーは感情が何も無い生粋の殺し屋で、まるで猟を楽しむように殺人を繰り返しながらモスを追っていく。
映画の冒頭でモスが狩りをしているシーンや、シガーが意味もなく鳥を撃つシーンは、彼らが死に憑りつかれていることを暗示している。
世の中を狂気が席巻していく中で、倫理を重んじた旧世代が居場所をなくしている。おそらく原作の小説はそれが言いたいのだろうが、映画では文学的な要素は切り捨てられている。
では何が面白いか?前記した通り、殺し屋役のハビエル バルデムが素晴らしいのである。
雰囲気や貫禄、威圧感はつくろうと思ってつくれるものではない。その人の生き様がそのまま存在感となるのだ。
人を表情一つ変えずに殺しまくれる人間とはいったいどんな男だろう?
劇中の殺し屋シガーはオカッパ頭にジーンズにウエスタンブーツ。少し滑稽なそのいでたちがかえって彼の狂気のコントラストとなり、迫力が増している。
私は殺し屋と対面した事は無いが、彼のここでの演技を見ていると冷血漢がどんなものなのか、よく判る気がする。
日本の北野武もこのような作品を撮りたいのだろうが、彼の品性とセンス、教養では全く不可能であろうと思ったのだ。
とにかく、この素晴らしい演技は10回観る価値はある。

NO.80「自由」 2008−3−8
人間は欲の生き物である。欲だらけだ。性欲、食欲、出世欲、向上心・・・沢山ある。欲のみで生きていると言ってもよいだろう。それには教師も坊主も神主も関係ない、人間として生まれた者は皆、欲の塊だ。そういう意味でこの世に聖職などない。日本最大の新興宗教の親分の欲まみれのスキャンダルは誰もが知ってる事だ。
オンナに興味はない、なんて口先だけで言ってる男ほどド助平なものであり、出世に興味が無い、なんていってる者ほど同僚の出世に嫉妬しているのである。
しかし欲は面倒だ。満たす為には努力が必用だし、競争を生き残らなくてはいけない。そしてやっと得た物も、もっと強い奴に奪われる危険が常につきまとう。
得るに努力、守るに努力、死んだ後の事にも気を回してしまう富豪もいる。面倒な事だ。面倒でも良いオンナ、オトコを連れまわしたい、旨い物を食いたい、高級車に乗りたい、そんな欲のほうが勝ってしまう。だから再び努力する。
だが真逆の考え方もある。一切を所有しない事だ。所有には限界があるが無所有には限界が無い。着ている物を全て脱ぐだけで良い。
家も家族も勿論カネもみんな捨てる。名前も出身も言葉も捨てる。究極のその日暮らし。私はそれこそが完全なる自由人だと思う。
ところがそんな自由人は滅多に存在しない。大富豪が少数なのと同様に、自由であり続けることも困難なのだ。日ごろ見かける浮浪者達はブルーシートで簡易な住まいを造ったり、買い物カートにペットボトルや雑誌などを山積みにして移動している。こんな中途半端な自由は無い。名前を捨ててるクセにゴミを所有する事は、そのゴミが欲望の象徴になってしまう事から実にみっともない事である。
人間は持つも捨てるも困難な生き物なのだ。どこにでもある、ささやかな欲望を財産と称して、セキュリティーを設置した家に保存しておくだけ。
これを滑稽と笑う事なかれ。200年も前の文学が読み続けられているのも、人間が何一つ前進していない事の証明であろう。

NO.79「ルードウィフィ 俺」 2008−2−22
私の趣味は作曲である。中学生の頃から作曲しているので、もう何百曲も生み出しているのである。その曲達はハッキリ言って半端なモノではない。世界に通用する超一流の曲が多い。本当である。
私に作曲の神が語りかけて来るのは、そう寝入りの頃。天啓のように素晴らしいメロディーが空から降ってくる。時には完璧なアレンジとなって現れる。ベースラインもドラムスのおかずまで完璧に閃く。勿論、ギターソロの音色まで完璧だ。何年製のどこそこのメーカーのギターを使うべし、とまで語りかけてくるのだ。
私はとても眠いのに強引に起きてギターを持ち出し、たった今閃いた曲を形にしていくのである。どんなに眠くとも我慢する。それが天才の宿命である。
天才は恐ろしい。ギターのコードを5つしか知らない私が、たった今思いついたばかりの曲をスイスイギターで形にしていく。まるで何回も練習した曲であるかのように。そしてその曲は必ず素晴らしい。
テープレコーダーに録音し、コード進行を書き留めて安心して眠りにつく。ここで不安がよぎる、また寝入りばなに曲が閃いてしまったらどうしよう?朝まで眠れないじゃないか・・・と神を恨んだりする。
そして朝。昨夜の曲をチェックする。素晴らしい。
しかし昼頃になると何かが釈然としない。晴れ晴れとした気分にどす黒いモヤがかかって来る。おかしい・・・・なんと昨夜作った曲はポールマッカートニーが20年前に発表していたのだ。
作曲の世界の当然の掟として、やはり先に発表した方に権利が生じる。偶然にも同じ曲を作ってしまった私とポールだが、彼の方が先に発表したと言う事で全ての栄誉も権利も彼に属してしまうのだ。こんな理不尽な事があるだろうか?
カネをよこせとは言わない、彼にもスーパースターとしての豪華な生活を維持していく権利はある。しかし、せめて作曲クレジットくらいは分け合おうではないか。Hey Paul. Give Me  credits
その外、ディープパープルやエルトン ジョン、カーペンターズまで私と同じ曲を閃いて、作曲の栄誉を独り占めにしているのである。
許せん。しかし原田真二の「キャンディー」はビートルズの「ミッシェル」だというのに、未だにお咎めなしというのはどういうことなのか?
だから作曲は当分止めにしたのである。

NO.78「詐欺師」 2008−2−4
詐欺とは内容の無い物をあるように見せかけて、高額で売りつける高等テクニックを自在に操るマジシャンの事である。先日も江原啓之とかいうセラピー業の人間が、生きている人を死者として霊視してしまい、その詐欺体質が白日の下に曝されてしまった訳だが、江原も細木も詐欺師なら池田も文も詐欺師とかわらない。
先日も葛飾区の自称祈祷師で自称不動明王の生まれ変わりという大山幸男という男が、相談者の若い女性を、祈祷すると称してベッドに寝かせ下半身をまさぐって御用となったわけだ。本人は当然祈祷だと言い張ってシラをきり続けている。
相談料は一回一万円以上で年間1500万円も稼いだらしい。
カネとオンナと地位は男の最大の欲望だから、このオッサン、毎日が極楽だっただろう。
私は困っている人の悩みにつけ込む商法は大嫌いなので、このニュースを聞いた時立腹したが、実は怒る前に2秒ほど「いいなぁ」と思ってしまったのである。この2秒は単に物理的な2秒であって、イメージは放射状に高速で広がるので、物理的な単位では表現できない長時間、私はみだらな妄想にふけったのである。
なんせやる事なすことみんなOKだ。沢山の女性の様々なカラダを思うままにできるなんて、こんな素晴らしい事は無い。誰に何と軽蔑されようが罵倒されようが、一度はそんな事してみたい。そのうえカネももらえるのだ。マイハーレムだ。
しかし私には悲しいちっぽけな理性があり、失いたくない家庭があり店が有り、そして詐欺師を演じ続ける根性も度胸も無い・・・そんな2秒が経過して「けしからん」となるのだ。
嗚呼、表裏は一体なのであった。それにしても江原は本当にけしからん。詐欺師はテレビに出てはいかん。

NO.77「激走記」 2008−1−27
去る1−20に綾瀬市民駅伝に、ウチのお客様を募って「大繁盛 居酒屋 七輪」チームとして参加した。メンバーはモーリー、ユミ、マコピー、マータン、私の五人だ。我がチームは「市民」の名に恥じない立派な市民グループである。ここでいう市民グループとは、1−勿論プロではない、2−日ごろ走る習慣が無い、3−大酒のみである、といった諸々の項目に当てはまる、極普通の暮らしをしている人ということだ。
参加チームは56。女性が二人もいるのは我がチームだけ。更に年齢50歳以上や、体重90キロ以上のメンバーがいるのもウチだけだった、と思う。
コースの内容は6キロが三人、3キロが二人というもの。一般市民であるなら6キロは36分で走れば平均であるとの調査をしてから、各々が個人練習にいそしんだ。
練習結果は上々で私以外は皆、6キロを30分そこそこで走れる程に仕上げてきた。
感触としては優勝は狙えないものの半分は超えられるだろう、というものであった。
駅伝大会といっても、会はたんたんと進み3走者以降はどんどん繰り上げで、半分以上のチームはたすきがきちんと渡されないまま走る事になった。いくら時間の関係とはいえ、これではあまりにもやっつけ仕事丸出しだ。主催者には大会を盛り上げようとする配慮は少なく、ただ複数の個人が一斉に走るだけといった、投げ遣りな運営であった。
しかし、私の闘志は萎えない。アンカーとして責任のある走りをせねば、と颯爽とスタートをきったが、たちまち最下位グループに転落。フルスロットルに持っていくタイミングをつかむまでも無くビリから3位でゴールした。チームは最下位から2位であった。
私は6キロを33分48秒で走ったので決して遅くは無いのだが、このザマである。みんな速い速い。
結局我々が一番盛り上がったのは、その日の打ち上げであった。
来年こそは優勝を誓い合ってその日は散会したのであった。

NO.76「反ブランド指向」 2008−1−15
私はブランド物が嫌いだ。高級ブランドであればあるほど、その物の値段より付加価値が多くついてしまって馬鹿馬鹿しいからだ。今、日本で高級ブランドバックを持ち歩いている人は、そのデザイン、機能性が好きというより単に値が張るから、という理由だからだろう。高価なものを持ち歩けば自分のステイタスが上がると思っている人は下品なヤクザ者と同じでは有るまいか?極道が高級車、高級腕時計、高級スーツで着飾り周囲を威圧するのと同じ、浅はかなメンタリティーだと思う。
ロックミュージックで使用する電気楽器も同様である。海外の有名ブランドの楽器だけが素晴らしいわけではない。国産の中堅メーカーの安物でも良い楽器は沢山ある。まあ、楽器でいえば、上手い人が弾けば2万円のギターでも良い音はするし、下手な人が弾けば100万円のギターでも、ただの騒音となるのだが。
先日、高価で有名な焼酎「魔王」を飲んだ。量販店で買えば700ミリリットルくらいの瓶で1万円はする酒だ。店で呑めば15000円くらいはするのだろうか?しかしとっても不味かった。あんな不味い酒をありがたがって数万円も出して呑む人は舌の機能が完全に麻痺しているか、カネが腐るほどある人だろう。目隠しして呑まされたら一本100円だと言われても疑えないくらいに不味い。
ウチにおいてある無名の焼酎の方が何倍も美味しい。
じゃあ、なぜ人はあんな不味い物に大金をはたくのか?それはその物が高価だからである。高価イコール最高。最高イコール上流。そんな図式にとらわれている人は自らの感性を失った悲しい人だ。
自分の感覚を信じられない人は常に他者の感覚をもってしてしか生活できないのか、私の知人にも地位のある人と金持ち以外は全く人間扱いしない、という徹底した人もいる。彼の中では肩書きと人格が一緒になってしまっているようなのだ。
件の彼は精神カウンセラーというかマインドコントロールというか、その道で有名な人を崇拝しており、そのカウンセラーは「ツキのある金持ちだけと付き合え」と本気で説いているのだ。彼は著書の中で自分の父を人格が立派でもカネがないからダメな人間だとこきおろし、カネが無ければ人格が優れていても何の意味も無い、などと記している。
果たしてそうだろうか?
上記の知人はカネも有り地位もあり家も財産も人脈もあるが、食事のマナーを全く知らないし、音楽、文学、美術については何も語れない。勿論楽器も弾けない。カネはあるが教養が全く無いのだ。
世の中は肩書きが立派でも卑しい人は沢山いるし、名も無い高潔な人も沢山いるのだ。値札だけで物事を判断するなど実に馬鹿げている。
本質を見極め本物を受け入れる。その為には勉強が必要なのだ。それが教養だ。読書しましょう。

NO.75「木下賞」 2008−1−10
昨年、私が出会った人物、周囲で起こった物事、社会的事件、鑑賞した映画や音楽の中から一番スゲェーーーーと思ったモノに対して賞を贈りたいと思う。
これには基準も何も無く、勝手な自己満足ではありますが、私の感性を通した社会への問いかけでもあります。
私が昨年一番スゲェーーーと思ったのはMLBのエースピッチャー、ジョシュ ベケットである。
私は小学校低学年の頃から野球が大好きで、水嶋新司を神のように崇めていた時もある。当然毎日プロ野球中継は観ていたし、甲子園も予選から観ていた。
そうして30数年、野球はチームプレーであり個人の能力の競い合いではない、と思うようになっていた。というよりそう思わされてきた。
だから大エースと大打者の対決は決して彼らだけの決闘ではなく、チームの勝利が大前提にあっての、いわゆる決闘というには邪心が入った対決であった。
だから印象的な試合や場面はあっても、胸のすくような対戦は少なかったと思う。・・・・・それは嘘だったのだ。以前も書いたが、世界一を争うような試合でも個人のままに決闘的な投球をやってのけたのがベケットだった。私は彼の投球を見たとき30数年の月日が一気に吹き飛んでしまった。これこそ俺の観たかった投手、そして野球なんだ、と確信したのである。
重複するので簡単に書くが、ベケットはチーム勝利の為に、かわして誤魔化す投球をせず、危険だが力勝負の決闘を見せてくれたのだ。
会社や組織の為に犠牲を強いられる事が当たり前だと思っているならそれは間違いだ。自分の信じる個性を出してこそ、自分の信じる理想を追ってこそ人生である、と思い直したのである。
ということでベケットには木下賞の記念盾と副賞300万を贈りたいと思います。本人が期限内に取りにきたらあげます。

NO.74「お客様 大感謝セール」 2007−12−24
おかげさまをもちまして、来春で我が店は7周年を迎えます。そこで日ごろの感謝の意をこめて、なんと一週間ぶっ通しの「100円で呑み放題食い放題 無制限サービス」を実施する予定です。本気です。
しかし、単純にサービスをするなんて客商売の基本であって、わざわざ宣伝するまでもありません。他の店でもやっている事ではありませんか。そんなありふれた考えではサブプライムローン不況は乗り越えられません。
そこで我が店は条件を作りました。その条件が満たされた時のみセールを実施する、というほうがスリリングかつエキサイティングかつドラマティックかつワンダフルだからであります。
その条件とは・・・・・来年1月20日に綾瀬市の市民マラソンがあります。我が店もお客様メンバーを結集してエントリーしました。5人のメンバーは誰も皆、脚に自信のあるオリンピック級のアスリートです。チーム名「大繁盛 居酒屋 七輪」チームが、その大会で優勝した時にのみセールを実施します。ですから僅差の2位でも3位でもセールは実施されません。優勝あるのみです。
ということで皆様応援よろしくお願いいたします。
あともう一つ告知。副賞300万の第1001回「木下賞」が年明けに発表されます。これは私が2007年にもっともスゲェーーーーと思った事柄、作品、人物、事件などから一つを選んで賞を贈るというものです。受賞者は期限内に店に取りに来た時のみ記念盾と副賞300万を贈呈します。本気です。では請うご期待。

NO.73「映画を観たぜ」 2007−11−06
「めがね」という映画を観た。予告編にフランス映画の香りを感じたからだ。しかし期待は大きく裏切られ、非常につまらない駄作であった。
何がつまらなかったのかを判別するため本物のフランス映画を観ようと、2005年の作品「愛されるために、ここにいる」を観にいった。これは素晴らしかった。
フランス映画は抑揚が無く、ささやくようなセリフの交換のあと、話の途中で作品が終わってしまったりする。しかし主張が何も無いわけではない。平凡な日常をリアルに映し出す事で問題を提起したりもする。
「愛されるために、ここにいる」は世間体と親子問題を絡ませた恋愛物語である。一方「めがね」はすべて架空の、意味の無いストーリーがダラダラと続くだけ。リアリティーが全く無い作品なので感情の移入ができない。ここがつまらなかった訳だ。ファンタジーとはリアリティーの上に成り立ってはじめて意味を成す。「めがね」は社会と接点を持たない妄想女が創った陳腐な戯言であった。カネと時間を返して欲しい。
「ブレイブ ワン」 もう体にハリの無いジョディー フォスターのセックスシーンが多いのには辟易させられたが、作品自体は良くできていた。意見が偏らないような登場人物の配置は良かったが、ラストがやっぱ勧善懲悪で平凡。キリスト教の影響が丸出しの痛快なラストは、痛快であるぶんだけつまらない。現実は悪人がのさばっているものだ。
見方によってはこの作品は死刑を肯定しているようだが、それについては私も同意見。快楽目的の殺人、強盗殺人は精神の責任能力の有無にかかわらず死刑にすべし。犯した罪は犯した者にあるのは間違いない。
「グッド シェパード」 ロバート デニーロの監督第二作目。前作「ブロンクス物語」が良かったので期待した。それを裏切らない重厚な人間ドラマ。淡々とした語り口は「ゴッドファーザー」的ではあるが、手腕は今のところコッポラには及ばない。
主演のマット デイモンの演技が相変わらず単調で、作品の質を落とすのに大貢献。こんな難しい役をどうして彼にやらせたのだろう?
近々、偽物の「椿三十郎」が公開されるが、予告編を見る限り最低最悪のゴミ映画である。
「椿三十郎」とは、偉大なる黒澤明の代表的痛快娯楽大作である。世界に名だたる巨人の傑作を無能な人間がリメイクするなどもってのほかである。許せん。宮藤かんくろう脚本のようなゴミ映画を創るのは勝手だが、偽者は偽者らしく自らの世界で遊んでいれば良いのだ。偉大なる黒澤作品に軽々しく手をつけるなどもってのほかである。
更に主演の織田裕二には三十郎は荷が重過ぎる。というかどんなに努力しても永久に無理である。格と品性が違いすぎる。豪放磊落、正義感で繊細でユーモラスで強い三十郎は三船敏郎の個性を基礎にしており、三船以外にはできる俳優など人類史上皆無である。
織田なんて出てきたら弱そうで舐めれてしまう。彼がアウトローで腕っ節一つで生きている、なんて全く信憑性が無いだろう。絶対観ない事を勧める。

NO.72「野球人類学」 2007−11−04
MLBのワールドシリーズが先日レッドソックスの優勝をもって終わった。私は1992年にボストンを訪れてフェンウェイパークで観戦をして以来のレッドソックス ファンなので今シリーズはプレイオフからずっとテレビで応援していた。
かつて日本のスワローズ球団に一年だけ在籍したボブ ホーナーが、自著で「地球の裏側にもう一つのベースボールがあった」と記していたが、その発言から20年経った今、改めてその言葉の意味を知った。
本場のベースボールは日本の野球とは違う。それは個々の能力だけでなく、勝負というものに対する考え方の違いが大きいと感じた。
チームプレーであるにもかかわらず一騎打ちのダイナミズムがベースボールにはある。それは日本に於いては勝利至上主義という錦の御旗の下に否定されてしまう個人の決闘である。
ワールドシリーズ第一戦。レッドソックスのエース、ジョッシュ ベケットは立ち上がりから四者連続三振を奪う。まあ、こんな事は日本の野球でもよくある事だろう。しかし内容が全く違う。全て直球の力勝負であった。相手のロッキーズ打線はリーグ二冠王のホリデーもいる強力打線だ。しかし変化球などハナっから頭に無い。強引に力で捻じ伏せにかかり、見事にそれをやりのけてしまう。
そしてランナーが出ても牽制もしなけりゃ、クイックモーションで投げるってな事もしない。
現在、日本のプロ野球で最高の投手ダルビッシュに同じ事はできないだろうし、やらせもしないだろう。
更にクローザーのパペルボンも素晴らしかった。優勝がかかった試合の9回、一点差の場面なのに直球勝負。球場が高地でホームランが出やすくとも、打者が直球打ちが得意でミエミエで待っていようとも、直球を投げ込む。
こんな場面、日本の歴代最高のリリーフ投手佐々木ならフォークボールの連投だろう。
今年の日本シリーズの第5戦、中日の優勝がかかった試合で山井投手が8回まで完全試合をしているのに9回に代えられてしまった。こんな交代、ワールドシリーズでやったら、おそらく大ブーイングが起こるだろう。
プロ野球は超人の集まりである。天賦の才を努力で磨いた人々の、まさに夢の舞台である。夢は浮世から離れた所にあるから夢であるのであって、平凡な日々の暮らしの理屈の延長上にあっては、もはや夢ではない。
日本の島国根性は未だ変わらない。

NO.71「後の祭り」 2007−10−17
前回は溜まっていた怒りにまかせて書き殴ってしまったが、亀田問題を冷静に考えてみる。
今回の事件を含めて、亀田の登場以来、一番被害を被ったのは誰か?それはボクシングをこよなく愛する一般のファンであり、現場で真面目に汗を流すボクサー達である。
亀田によって日本のボクシングは醜く歪められてしまい、今まで先人達が100年かけて作り上げた信頼が台無しになってしまった。
ボクシングは肉体を介した魂の交換である。チンピラの喧嘩祭りではない。
事実、彼らの登場以来、ボクシング人口は増えてもいないし他のボクシング中継も視聴率は良くなっていない。真摯なボクシングに対する恩恵など皆無である。
しかし、彼らの登場で恩恵を受けた者も確実に存在する。それはまず亀田家本人達。長兄の昨年の年収は10億円を超えるという。という事はあの一家で今まで15億は稼いでいるだろう。
あの品性と実力で15億なら最高だ。
次にボクシングに携わる人々。協会は勿論、新聞、雑誌はこの数年で一儲けできた筈だ。「ボクシング界の為」という大義名分でちょうちん記事を書き続け、私服を肥やしファンを欺いてきた。
今頃批判している人の中には「今時、珍しい美しい親子愛」などといって持ち上げていた人もいる。あの品性下劣な行いが美しいのか?
やる気の感じられない外国人相手に、浴びせた押しやローブローの反則を繰り返して形だけのKOを作り上げているのに、もてはやし続けてきた人が今は批判にまわっている。
こうした周囲が彼らのような人間を作り上げてきた事は確かである。
そして誰よりも恩恵を受けたのはTBSだろう。何年もかけてまがい物を作り上げ、ここまで騒ぎを大きくしたのはTBSである。今頃批判番組を作っても何をかいわんやである。私は一連の騒動の根幹はTBSにあると思う。
テレビの影響は凄まじい。本を少しも読まない人は沢山いても、テレビを少しも見ない人はいないだろう。雑誌が悪事を働けば不買運動もできるが、テレビが悪事を働いても不見運動はできないだろう。その辺りも計算ずくの仕掛けだと思う。
本当の仕掛け人は姿を見せずにガッポリ稼いで姿をくらましている。あとは亀田を切り捨てて幕引きにすれば良いだけだ。
当の亀田は今頃になって、泣いて反省しているらしいが、遅すぎる。世界に配信する映像で罵詈雑言、悪行の限りを尽くしながら、怒られると泣き出す。いくら祭り上げられていたからって馬鹿にも程がある。義務教育さえ馬鹿にして怠ってきた問題点が、まさにここに出てきている。
25歳でボクシングを始めて世界王者になった輪島功一氏は、それまでの経験をボクシングに当てはめた、と言っている。
一流の野球選手になりたければ野球以外を知るべきだし、一流の音楽家になりたければ音楽以外をたしなむべきである。その大元となるのが義務教育であると私は思う。
バランスを身に着けなければ自らを見失い、大きな流れに呑み込まれてしまうのだ。亀田家はだれの中にも存在している。私も子を持つ親として、人事ではない。

NO.70「亀田の血祭り」 2007−10−12
人間は本来残酷な生き物だと思う。
無垢な子供が人を平気で傷つけたり、戦時における様々な非人道的な蛮行がその理由だ。ブームの波はあるにせよホラー映画もなくならない。公開処刑などを放送したらきっと視聴率は上がるだろう。
だが、人類の歴史はそんな本能と対峙する事にある。自らを犠牲にし、相手を思いやり気遣う。それこそが人間を人間たらしめる精神のあり方である。
昨日の亀田家の次男がボクシングの世界タイトルマッチを行った。しかしそこで繰り広げられたものは最早ボクシングではなく、チンピラ気取りの精神異常者が世界王者に暴行をはたらく、という見るもおぞましい見世物であった。権威あるボクシングの世界戦というのはK-1や総合格闘技のタイトルマッチとは訳が違う。アメリカ大陸からアフリカ、ヨーロッパまで、おそらく普通に暮らしている日本人が一生訪れる事も、その言語に触れることも無いような国にまで中継されるのである。だから世界戦は聖域であり闘う者は尊敬される人物であるべきだし、また、そうでなくてはならないのだ。
それを亀田親子は試合前から世界王者を汚く罵り、勝てないとわかるや試合中に父親が反則の指示まで出して、目潰し、あびせ倒し、ボディスラムなど暴行を食らわす始末。一ラウンドで3ポイントマイナスなど私は他に例を知らない。
これがスポーツの、ましてや世界と冠を頂く競技のあるべき姿なのか?
最早、下品とか無知性とかの問題ではない。公共の電波に乗せた公開犯罪である。これが面白いのか?テレビは視聴率が良ければ何をしてもいいのか?注目されているからといって、あの連中を今まで擁護するように放置してきた監督機関にも勿論大きな責任はある。
ちなみに私は今回の試合?は見ていない。亀田家の試合は今までも見ていない。見るに値しない品性下劣の茶番だからだ。新聞の記事で十分である。
自分さえよければ良い、思い通りにならなかったらルールを踏みにじっても良い、それは元ライブドアの堀江と同じ幼稚な犯罪者のメンタリティーである。
数学者の藤原正彦氏がこうおっしゃっておりました。「人間は本を読んでこそ人間である。読書しない人間はケダモノである」と。
本とは教育であり、集団生活のルールである。いくらボクシングの王者を目指すからといって一般の教育を怠って良いわけは無い。様々な経験、知識の応用を競技に繁栄できるように指導するのが大人の役目だ。彼らは父親を含めて人間としての教育をやり直すべきである。でなければ公の場に出してはいけない。必ず真似をする馬鹿が出てくるからだ。
ここで厳罰に処さなければ今後、第二第三の亀田が出てきて日本からこの競技は消滅するだろう。
彼らの愚かな行いは、ボクシングだけでなく人類に対するぼうとくである。

NO.68「大地の子」 2007−9−5
エンターテイメントと文学性は相反するものであると思っている。いわゆる文学性というのは心情描写や思想世界が主で、エンターテイメントとは視覚的な世界の事だと思う。
どちらが解り易いか、といえば言うまでも無い。
小説は視覚的であれば当然、映像化がしやすく、映像化は高収入につながって行く。しかしそれは必ずしも作品の評価とはならない。
このジレンマに悩まされている作家は世界中に数多くいる事だろう。
自分がやりたい事が一般に受けるモノであるならそれにこした事は無いのだが、それは稀である。
そんな稀な作品が大河小説「大地の子」である。
山崎豊子によるこの作品は1989年の8月から19991年の4月まで文芸春秋に連載されていた。
私は「白い巨塔」を20年前に読んでおり、山崎はどちらかというとエンターテイメント系の流行作家という認識であった。しかしこの「大地の子」は物語の面白さに加えて、文学に欠かせないヒューマニズムが豊富に盛り込まれている。それはシェイクスピアもドストエフスキーも描かなかった目を背けたくなるような獣のようなヒューマニズムである。人間みんな良い人なんて思っているようなおめでたい人には決して読みきれないようなリアリティーがそこにある。
物語は1945年の終戦時、日本の敗戦によって傀儡国家 満州は崩壊する。政府の甘言に騙されて入植した人々は命からがら日本に逃げようとする。しかしソ連軍の執拗な攻撃により日本開拓団はほぼ全滅し、両親を失った子供達が中国人に引き取られた。
7歳の勝男と5歳のあつ子も同様であった。二人は別々の中国人に引き取られ幼いながらも馬車馬のように働かされ、日本人ということで何かと苛められ地獄の苦しみを受けることになる。
幼い子供二人の拷問シーンは想像を絶するひどさである。
飢餓の苦しみから食人するシーンも、人間の尊厳を問いかけてくるようであった。
己の生命を維持し、それが全てに優先する、というのが生物の本能である。人間も獣も同じである。しかし決定的に違うのは人間には理性があり、明日を読む力があるということだろう。
そして、それを支えているのは教育であり学問なのである。だから本を捨てた時、人は獣の道に堕ちる、と言っても過言ではなかろう。
この作品に描かれている、偏狭地の無学の人々がいかに人間性を持っていないか、という所からもそれが読み取れる。
極限の人間性を鋭く描きながら、同時に陸徳志という人間の欲から離れた崇高な人物が主人公の養父として登場する。
彼には怒りも偏見も欲も何も無い。どんなに激しい暴風にさらされても大局から物を見る骨太の愛情を失わない。彼の存在こそがこの物語の骨子である。「大地の子」とはそんな巨きな人物に慈しまれた主人公を示しているのである。
この作品はもちろんフィクションだが、3年に渡る膨大な取材を元に創られている。だから完全な作り物ではないのだ。
山崎豊子はこの作品発表後に引退を決意したらしいが、作家の集大成としては申し分ない傑作であるのでその真意も理解できる。
文学はこう有るべきだ。

NO.67「アナログ男賛歌」 2007−7−8
私は完全アナログ男である。反デジタル野郎なので携帯電話も持っていないし、店のメニューは手書きだ。アイポッドとかいう音楽再生装置もデジタル丸出しで大嫌いなので未だにレコードを集め、そして愛聴している。
勿論デジタル録音された音楽も好きになれないから私の音楽の趣向は1980年代中盤で停止したまま遡る一方である。
インターネットもアナログ回線だ。だから20秒の動画をダウンロードするのに24時間かかる。もちろんパソコンのキーボードにもアルファベットは一切無い。全てひらがな入力だ。なのでこの程度の長さの文章を書き込むのに4時間かかる。どこまでもアナログにこだわっているのである。
最近公開された映画のキャッチコピーにこんなのがあった。
「完全サイバーテロリスト対アナログ男」
これは私のことではないか。だから早速観にいった。そう、その映画のタイトルとは「ダイハード4.0」。
私は映画は文学的でなくてはならない、と常々主張し宮藤かんくろうとか三谷幸喜とかを軽蔑しているわけだが、文学性ゼロも好きなのだ。だから米国アクション物も大好物である。極地と極地は惹かれあうものである。中でもダイハードはシリーズ3作すべて文学性希薄な完全暴力ムービーである。
とにかく荒唐無稽の意味不明なのである。
主人公ジョン マクレーンはうだつのあがらない薄給刑事でなんのとりえも無い。なのに、ほんのお使い程度の外出でいつも巨悪の大事件に巻き込まれてしまう。人がいいからついつい最後まで付き合ってしまって傷だらけになってしまう。
今回もパソコンおたくのハッカーを連行せよ、という単純な指令であったのに、いつの間にか全米規模のサイバーテロリストと戦うことになってしまった。
のっけから爆破シーンの連続。私が主人公なら映画開始10分で爆死である。
主人公マクレーンは徹底的にアナログ野郎で、戦闘スタイルも拳と拳銃と知恵だけ。ちなみにテロリストの主な攻撃手段はコンピューターのキーボードである。この対比が面白い。
クライマックスではなんとF35とかいう最新型戦闘機とトラックに乗ったマクレーンとの一騎打ちである。トラックは完全丸腰なので常識的には勝負になる筈も無い。しかし期待通りマクレーンは戦闘機を撃墜しKO勝ちである。私は「すげえええ」と声を出してうなってしまった。パイロットがパラシュートで落ちてくる高さから地上に飛び降りてかすり傷だけで済ませてしまう。公園前派出所 両さん並みの不死身っぷりである。
ラストは大悪人を銃殺して終わりだが、アナログ野郎らしく撲殺で締めてもらいたかった。
エンディングではアメリカの代表的アナログバンドC-C-Rの「Fortunate Son」がこれみよがしに大々的にかかって私を心底満足させてくれた。
シリーズ中、今回が最も馬鹿らしく辻褄が合わない所が多かった、だからシリーズ最高のデキであった。
見る価値大いに有り。

NO.66「詐欺国家」 2007−6−12
私のメールボックスには毎日100通以上のゴミメールが届く。ゴミの内訳は詐欺と出会い系だ。
一日一回パソコンをいじるだけで30万円手に入るとか、パチンコで絶対勝てる方法とか。カネを振り込んでからその方法を教えます、というのがその手口である。
出会い系はこうだ。「ご近所の欲求不満の奥様紹介」とか「無作為抽選であなたのアドレスがヒットしました。セレブの女性紹介します」とか。
これらは期間限定の無料お試しとか、完全無料とかうたっている。とにかく今、入会しなければ損である、と持ち上げた後で脅しているのである。
素晴らしい儲け話を10万円程度の謝礼で赤の他人に教える奴もいなけりゃ、飢えた女を時間とカネを使って無料で紹介する奴もいない。
ほんとに完全無料なのか?試しに出会い系に登録してみた。すると30分もしないうちに県内の欲求不満の女からメールが届く届く・・・
パターンはこうだ「会社を経営しています。ホストアソビには飽きたので登録しました。30万円ほど援助できます、メルセデスで迎えに行くのでセックスしてくれませんか?」とか「火遊びのつもりで登録しました費用は全て私が持ちます」とか「あなたの自己紹介文を読んでこの人だとビっときました。私のウチでもいいから会ってください、そして自由にしください」
こうした女たちの写真はどれもアイドルのように綺麗である。こんなに良い女が男に不自由するわけも無い。写真なんてでたらめに決まっている。
ちなみに私の自己紹介文とは「援助はできません。セックスだけが目当てです。車もありません」という一方的な欲望丸出しの無知性な文面である。
これ読んでビビっとくるか?きたら脳みそ腐っているだろう。
私は独身時代さんざんテレクラや伝言ダイアルにつぎ込んだので、この手に興味を惹く女のあり方やアプローチの仕方は大体わかる。男がセックスを持ち出して会えるのは援助交際目的以外にはまずない。それにカネやるからセックスしてくれなんていう30代の女性もいない、いる筈が無い。
さてさて、この業者はどうやって儲けるのか?登録、女からのメールと、ここまでは確かに無料だが返事を送るのに三千円、メールアドレスを送るのに五千円、自分の写真を送るのに千円、などこれ以降に千円単位のカネが必要となってくるのである。どこが完全無料なのだ?
アホらしくて放っておくこと一週間、相変わらず女からのメールが毎日120通ほど届く。こっちが無視しているとあの手この手でカネを振り込ませようとして様々な文章が届く。初めは面白かったのでほとんど目を通したが、相手の文学的センスも知性もたかがしれているのでたちまちつまらなくなってくる。
それでも無視を続けると本部が「せっかく登録したのにどうして遊ばないんですか?ひやかしは止めてください」とか怒りのメールが届き、それでも無視すると、なぜか私に入れあげている女がメール送信代5千円振り込めば10万円分のポイントを差し上げますとか、5千円振り込んでくれれば会った時に30万円上げるとか言って来る。
こんなに露骨に振り込め、なんて言って来たら詐欺丸出しではないか。人を騙すならもっと勉強しなきゃ。
私としては5千円振り込んでこの後の展開を見てみたいが生活的に5千円捨てる余裕は無いので、冷やかしはこの辺にしておこう。
日本は国がらみで年金詐欺をやるような国だから末端の意識は当然麻痺してます。街には詐欺が横行してます。自分の身は自分で守らねばなりません。

NO.65「パッチギ LOVE&PEACE」 2007−5−22
前作は日本映画史上に残る傑作だったので当然今回の続編も観にいった。
しかし続編とは前作を超えられないものである、というジンクスをこの作品も見事に受け継いでしまっていた。が、標準以上である。見る価値はある。それほど前作が素晴らしかったということだ。
キャストが一新されているのが裏目に出ているようだ。主人公のアンソンは前作の高岡蒼介の方が断然良かった。
アンソンは在日朝鮮人として生まれながらに負った差別に対して血液に染み込まれたような怒りをもっている。そういう男は笑っていてもペコペコ頭を下げていても周囲を圧倒する雰囲気を持っているものである。しかし周囲の人の愛情を受けてとっても優しい男なのである。だから彼の行動には柔と剛が互いに顔を出しあっているのである。
今回のアンソン役、井坂俊哉には肉体に染み込まれたような怒りが感じられなかった。喧嘩しても怒っていてもそれは生まれながらの差別を背負った者のそれではなかった。だから単なる優しい父親でしかない。
一方妹のキョンジャは前作のキャラクターを上手く受け継いでいた。違和感は少なかったが沢尻のほうが輝きがあった。
この作品の最大のテーマは「生きぬけ」ということだ。どんな状況に陥っても諦めずに前進せよ、と言う事だ。
劇中、戦争映画の撮影のシーンがあり「お国の為に死んでください」と恋人に別れの言葉として言うのは不自然だ、と主人公は訴える。「何があっても生きて帰って来てください」というのが愛する人への本当の気持ではなかろうか、と。
折りしも「俺は、君のためにこそ死ににいく」なんて恐ろしいタイトルの映画が現在公開中だが、死をもって愛を表現するなどという馬鹿なことは無い。
先の大戦で日本の為に自ら命を捧げて下さった兵士達への感謝の気持にすりかえて戦争礼賛の映画がこのところ増えている。由々しき事態である。
こんな恐ろしい映画を製作したのが首都東京の知事石原慎太郎であるということが実にけしからんことではなかろうか。
戦争で死ぬ事がそんなに美しい事だと思うなら、自分の息子をイラクの最前線に行かせればいいのだ。テレビで悪ふざけしていたり役に立たない政治をやっているよりはよっぽどマシである。
いざ戦争が起こっても国会議員や知事の息子は戦地にはまず行かない。真っ先に死ぬのは貧乏人の子供だけである。

愛情の大きさと反戦のメッセージ、芸能界への皮肉を込めた良くできた娯楽作品である。
生き抜いて抱きしめる事、それが愛である。

NO.64「史上最大のミステリー」 2007−5−7
私は幼少の頃からミステリーファンである。クリスティーもクイーンも中学生の時に読んだ。
あれは1994年の事だったか、雑誌の小さなコラムに「フェルマーの最終定理、ついに証明」というのがあった。
3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない。
文章にするとこんなにも簡単な定理をフランスのピエール ド フェルマーという数学者が1665年に発表した。
しかしその証明方法を明かさないまま彼は死に、その後360年にわたって各国の優秀な数学者が挑み続け失敗し、遂に英国のアンドリュー ワイルズという学者が証明したというのだ。彼は一度証明を発表したが小さな矛盾が発見され、やり直しの作業にかかりギブアップ寸前で天啓のように解答がひらめき、時間切れ目前で証明を完成させたのだ。しかもその証明には二人の日本人が関係していて、一人は研究の途中に自殺したという。
こんなミステリーが現実にあるとは・・・
それから興味本位に様々な文献を漁ってみたがどれも定理の解説ばかりで難しくて理解できなかった。はなっから私は解法には何の興味も無い、ただそれが解明されるまでの360年間の人々の葛藤が知りたかっただけなのだ。当時は今みたいにインターネットも無かったので簡単に調べる事はできなかったのだ。
それから17年間、私の心の片隅にはフェルマーの最終定理がひっかっかって離れていかなかった。
先日偶然にも街の書店でその名も「フェルマーの最終定理」という本を見つけた。作者はサイモン シン。訳者は青木薫。
これが素晴らしい本だった。これこそ私が探し続けていたフェルマーの本であった。ここ数年で読んだ本の中では抜群に面白かった。読んで得した。
この本はタイトルの通りフェルマーの最終定理を解説したものだが、フェルマーに入る前にピタゴラスやユークリッドの業績から始まって数学の歴史を簡単に説明してある。これが実に丁寧で簡潔で読みやすい。
先人の偉大な業績を踏襲した上でフェルマーが現れ、かれは様々な定理を投げかけては自ら証明してみせる。
上に記した定理はその最難関で、その証明に様々な学者が挑み、数百年の間に新たな技術や理論を生み出していく。しかし詭弁ともいうような理論を構築しても証明はできずに敗れていく。
数学とは哲学である。それは完全を求める哲学である。文学上の哲学は完全に証明できなくとも半数以上の人が納得できれば後世に残っていけるが、数学は針の穴ほどの矛盾も許さない。
360年に渡る死屍累々たる失敗を糧にワイルズの証明は完全なものとなったのであった。
この本は作者の力量はもちろんの事、訳者の文章力、知識も素晴らしい。読むべし。

NO.63「哀れロッキー」 2007−4−28
先日「ロッキーファイナル」を観にいった。今年のゴールデンラズベリー賞は決定したと言ってもいいほどの駄作である。あまりの素晴らしさに途中で三回も気絶してしまった。
周りの雰囲気が読めず、つまらない冗談を言ってしらけさせるだけならまだしも、その場に居合わせている人までも恥ずかしくさせてしまうような人はどこにでもいるだろう。しゃべっている本人がうけまくり、それゆえに痛々しさを伴うという、幽体離脱してしまいそうなおぞましい場面だ。
そんな経験をカネを払って映画館に行ってまでしたい人にはこの作品はお勧めである。
かつて一世を風靡したAVギャルが引退してもうだつが上がらず、にっちもさっちも行かなくなって齢60を超えて再びAVに復活し、張りのなくなったオッパイさらし、若い男優相手にむごたらしいセックスを披露して嘲笑されるような悲惨な事態を観たい人にもこの作品はお勧めである。
ストーリーから撮りかたからキャラクターの設定から、全て冗談としか思えない非常にデキの悪いパロディー以下の映画である。リアリティーが全く無く人間が全く描かれていない。9歳程度の知性の持主が脚本を書いたと言っても疑う人はいないだろう。
ハッキリ言って映画を舐めてる。客を舐めてる。わざとやってるとしか思えないほど酷い。
スターウォーズシリーズも酷かったけど、あれはあれでカネをかけて知恵を絞って創っているのがわかったが、この作品にはそれが全く無い。
ところが私の周囲にはこの作品を観て感動して涙したと言う人が三人もいる。
・・・・信じられない・・・・私は彼らとの付き合いをこんりんざい解消しようかと思っている。実に罪深い映画です。
何でもスタローンは来年ランボー4を公開するらしい。観るしかないだろう。

NO.62「ロック野郎 発見」 2007−4−12
私はロックが大好きだが、ロック野郎を発見するのも大好きだ。ロック野郎とは、ひねくれてて反抗的で、間抜けな理屈を捏ね回し、年がら年中熱病に冒されているようなハッピーな人の事だ。
そんな奴身近にいたら迷惑だが話題には事欠かない。
今日の新聞を見て日本野球界にもロック野郎が沢山いる事を発見した。それは横浜ベイスターズ球団とそこの那須野巧投手だ。
ベイスターズは野球協約で定められている上限1.5億円の契約金を真っ向から無視し5.3億円も支払っていたのだ。しかもその契約が結ばれる二ヶ月前には同様の裏金問題で球団のオーナーが辞任していたのにだ。
馬耳東風。ロケンロールの真髄である。
そしてこの那須野君、こんなに大金を貰っといて二年間でたったの4勝しかしてない。今年一つ勝っているので通算5勝。一勝が1億円以上である。やらずぶったくりを見事にやってのけている。キーポンロッキン那須野。
なんでも出身大学である日大の監督も3千万円貰っているらしく、報道では自ら球団に請求したとか。このあたりの真偽は判らないが潔白だと言い切れるなら自身の資産を公開をしてはどうだろうか?内部に設置した調査委員会などといういかにも形だけの対応は幼稚で笑える。解決していないというかする気も無いのに解決したと言い切る現実逃避、薬物中毒状態は生活の中にロックを取り入れてないとできない荒業である。
いっその事プロ選手を沢山輩出している学校の監督の私生活を調べたらどうだろう?ハードジャンキーなパンクアーテストが沢山いる事だろう。まあ資産公開に応じる監督は一人もいないだろうけどね。
西武も170人に裏金を渡したとか言ってるが、そもそも裏金っていう表現はいかがなものか?松坂が100億でレッドソックスに買われた時は英雄視したくせに日本国内で同様のことをやるとなぜ犯罪者扱いなのか?
獲得するほうも送り出すほうも「カネ」だと言ってるんだから形だけのルールなどハナっから作らずに、堂々と札束攻勢OKにすればよい。全て「表金」だ。
5億6億は当たり前。親の潰れかけた会社も兄弟の就職も全て面倒見ます、契約金が他球団より一円でも安い場合は遠慮せずに職員にお申し付け下さい。すぐに上乗せします。
激しい金銭闘争の末、入団した暁には選手紹介のアナウンスに「9番投手 那須野、背番号13、契約金5億3千万」などと言ってあげれば良い。二年で4勝で5億なら宝くじより良いな、と親や監督に夢が広がるではないか。
野球する為だけに高校を越県入学するような輩にアマチュア精神などチャンチャラおかしい話である。甲子園で活躍した高校生は電卓片手に「一番カネをくれる球団に入団します。そうすれば父親の借金も返せるし、ガキのクセにフェラーリに乗れるからです」とさわやかに答えて欲しい。
絵に描いた理想がこれ見よがしに存在する所には必ずロック野郎が現れるのである。ロック野郎は人間のあられもない姿であり倫理をあざ笑う天使の顔をした悪魔の化身なのである。

NO.61「八百長」 2007−3−12
今、角界が横綱 朝青龍の八百長問題で大きく揺れている。
八百長・・・真剣勝負を基本に据えている競技にとっては致命的な言葉である。事実であったならその競技そのものが否定されてしまう。
八百長をしてるかどうかは私には判らないが、試合直後に観客から「八百長!」などとヤジが飛んだり、20年以上も週刊誌で騒ぎ立てられているのはどう考えても正常じゃない。火の無い所には煙はたたないものである。
真剣勝負の御旗の元に予め勝敗が決まっているのが八百長である。勝つ気持のない相手との試合も八百長の定義内であり、その代償としての金銭の授受は無くとも、出演料や渡航費という名目で相場よりも高額を渡せば立派に買収成立となる。
プロレスは勝敗の決まっているショーであるのに真剣勝負のフリを続けてきた。
プロ野球は巨人軍だけが繁栄すれば良く、他球団はそのおこぼれをちょうだいすれば良い、という真剣勝負にあってはならない理屈が60年以上もまかり通ってきた。
結果以上の二つは人気が凋落している。
ハッキリ申そう。勝負に於いて命がけで勝ちに行かない者は全て八百長をしているといわれても仕方ないのである。この認識が甘いと大相撲もプロレスやプロ野球のように衰退していく事は間違いない。他の競技もしかり。
真剣勝負を売り物にしている競技にシナリオも八百長もあってはいけないのだ。当たり前の事だ。
どの業界もスターと呼ばれる存在が欲しいのは当然の事だ。無敵のスターがいれば業界全体が注目され活性化する。しかし一朝一夕に育たないのがスターである。そして一朝一夕に育たないからスターである。
ならば八百長でスターを作り上げたらどうだろう?最近、日本ではそう難しい事でもないらしい。
八百長でスターを作ろう。
対戦相手の演技がバレない為には言葉の違う外国人が最適だ。英語圏外の人なら尚良し。インタビューでボロが出にくいし、同国人と違って経歴も詐称しやすい。異国という事で勝敗にも鈍感でいてくれる。貧しい国の人なら相場より少し高い「円」で簡単に交渉成立だ。
喧嘩無敗とか借金まみれの元世界王者とか400戦無敗とか、彼らにいかがわしい肩書きがあると使いやすい。
作り上げるスター候補も無個性の好青年ではインパクトが無い。雄弁でビックマウスで礼儀知らずで馬鹿なら注目度はアップ。最低に下品な親父が現れてホラ吹きまくるのも良い。良くも悪くもまずは注目されることが大事。
試合は相変わらず八百長で買い続ける。ためらいや良心は全て捨て去る事。カネを湯水のごとく使っても派手な勝利が続けばそれがカネを呼ぶから資金繰りは心配ない。
批判的なマスコミや知識人は恫喝して黙らせる。それでもまだ批判してくるなら逆に被害者を装って「いじめられた」と世間に訴えるべし。いつも強気なのに一転、弱い所を見せれば世間知らずの良心的な一般市民が同情してくれ、またまた人気は上がる。
騙せる所まで騙すべし。取れるうちに取りまくるべし。
しかし世の中は甘くない。偽者はやがて見抜かれ飽きられ忘れられる時が来る。そしたらしこたま貯めこんだ金を大事に、ずらかればよい。
その時その業界は完全に信用を失い滅亡の憂き目にあうだろう。
さてさて次の朝青龍の取り組みと「彼等」の行く末が楽しみである。

NO.60「なめんなよ、東京デズニーランド」 2007−3−8
私は東京デズニーランドが嫌いだ。軽薄で滑稽だからだ。今まで一度も行った事が無いしこれからも行くつもりは無い。
アレが開園の時、従業員の日本人女が金髪のかつらを被ってニコニコ笑いながら踊り狂っているのを見て私は子供心に「これはおかしい」と思った。金髪のかつら被って踊るなんざ場末のストリップと変わりないじゃないか。それにミッキーマウスは同時に二体出現してはいけない、という馬鹿馬鹿しい掟も鼻につく。あんなもの中に人間が入ってるに決まってるじゃないか。独立した生き物の筈が無い。しかし、それを指摘すると夢がどうしたこうしたと筋違いの反論をしやがる。だったら本物みたいにリアルなミッキーマウスをつくれよ。服なんか着せないで四つんばいで歩かせろ。
何より彼女ができるとまずはデズニーランドへデートしに行こう、というお洒落なデートスポット的存在のしかたが気に入らない。私の中ではお洒落イコール大衆迎合、ポリシー無しの根性無しなのである。
それにジェットコースター乗るのに一時間以上待つなんて正気の沙汰ではない。待たせるほうも待つほうもどうかしてる。ジェットコースターなんて時間待ちして乗るようなモンじゃないだろ、それに乗らなきゃ田舎へ帰れないわけじゃないんだから。
こんなに嫌いなのに、更にまた嫌いにさせる出来事が起こった。
あのマイケル ジャクソンである。彼は自宅に遊園地を作るほど遊園地オタクなくせにわざわざ日本に来て、本場の猿真似にすぎない東京デズニーランドに地下から潜入し、一つのアトラクションを貸切にしてお楽しみ遊ばしたらしい。その間、一般客は倍の時間待たされているわけだ。
これは明らかに横はいりです。子供の目の前でやっていいのか?
権力者を特別扱いしておいて夢だの希望だの語るなんざ、ちゃんちゃらおかしいってんだ。こんな横暴を許可する東京デズニーランドは客へのサービスを何と心得ているのか?
もしウチの店にマイケル ジャクソンが来たら、私は他のお客さんと全く同じ接し方をします。混んでる時は少し待ってもらい、他のお客さんの男児をみだりにナンパしだしたらきちんと、たしなめます。
店内をムーンウォークで歩いたら「狭いから危ないよ」と、注意いたしますし、姉や妹と喧嘩したら「他のお客さんに迷惑だから外でやってくんないかな」などと叱ります。
もし嘘だと思うならウチにマイケル ジャクソンを連れてきてください。私は公約をきちんと実行します。
しかしブルース スプリングスティーンが来たら、慌てて暖簾をさげて臨時休業にし、彼と彼のバンドの為に貸切にして全てタダにします。
矛盾してる?いいのです、私は幼少の頃から自己矛盾の塊だったから。東京デズニーランドは矛盾が無いフリをして矛盾だらけだからけしからん、というわけなのだ。

NO.59「映画鑑賞月間」 2007−3−1
2月は6本の映画を観た。全て日本と米国のモノだ。偏っている・・・シネマが観たい、が最早、神奈川県では欧州の映画をかける館はほとんど無い。悲しき恥ずべき事実だ。
「デパーデット」 マーティン スコセッシ監督。
文学性のまるで無い空虚なバイオレンスムービー。内容無し。しかし面白い。3時間近い大作だが長さを感じない。それはひとえに監督の技量と役者達のひいでた芸のなせる業。
クライマックスでの天才ディカプリオと鬼役者ニコルソンの緊迫したかけあいは一見の価値のあるド迫力シーン。セリフだけで攻守がスピーディーかつ劇的に交代していく様は才能豊かな役者のみができうる職人芸。館内が緊張でピリピリ張り詰めるのが肌越しに伝わる。日本の安いドラマばかり観ている人はこのシーンを観て学ぶべし。スマップの連中がいかに無能かがわかるだろう。
マット デイモンが準主役として抜擢されているが相変わらず一本調子の能の無い演技。役がディカプリオと逆だったならこの作品は大失敗だっただろう。それでも彼が売れっ子なのは皆が「グッドウィル ハンティング」の彼を忘れられないからかもしれない。
しかしアカデミー作品賞は無いだろう。こんなのが昨年の米国映画のトップだなんて悪い冗談である。監督賞は妥当。マーティン スコセッシは「ニューヨークニューヨーク」の頃からすでに大家である。今更、という感じだ。彼のような気骨のある人間はその程度の賞で喜んでもらいたくない。
ディカプリオの無冠と合わせて選者の感性が疑われる。アカデミーなんぞ本物を選んでいない。
「それでもボクはやってない」 周防正行 監督。
裁判ものが好きなので観た。言っておくが監督の周防は好きではない。作風が軽薄だからだ。
だが、この作品は素晴らしかった。現在の日本の裁判の矛盾をうまく描き出している。痴漢の冤罪という誰の身にもふりかかりそうな題材が親近感を感じる。男女双方の言い分ももっともである。
作品にはスピード感がありテンポも良い。出演者は無名とマイナーばかりだが、脇役から主役まで実に巧みな演技を見せている。唯一のメジャー役者、役所広司の演技は名人技。三流映画にありがちな赤面するようなしらけたシーンは微塵も無し。
ただ一人、瀬戸朝香がド下手で作品の品格を見事に落としている。あんな無能を使わなくてはいけない事情がお気の毒。演技力はAVギャル並み。
映画とは娯楽であるのと同時に社会への問いかけもできる文学性の高い芸術である。このような社会へ問いかける作品は必用。周防監督の会心作。
蛇足だが、以前つきあっていた彼女とよく裁判の傍聴に行ったことを思い出した。For M。
「ドリームガールズ」 ビル コンドン監督。
モータウンを尊敬しているので観た。どっからどうみてもシュープリームスだがかなりのフィクションが入っているのだろう。キリスト教影響下にある米国映画の常として悪人は最後には滅びるというつまらないオチがそのまま。
音楽は良かったがわざわざ1800円払って観るに値する作品でもない。
モータウンなら3年位前に作られたドキュメントの方が遥かに優れている。
黒人としての被差別を含む悲哀が全く描かれていない。この時代は今より人種差別が激しかったからこんなに人間的には扱われていなかった筈。そんな文学性の欠如が質を落としている。ジェレミー フォックスの演技も並み程度。
「幸せのちから」 ガブリエレ ムッチーノ監督
実話に基づく話や下克上サクセスストーリーが大好きなので観た。
なんのひねりもオチも無い語りつくされた感のある話。だが、しらけないのは監督の技量と主演のウィル スミスの才能による。所々ドキュメンタリータッチな映像はヨーロッパの監督ならではだろう。
家も無くなった貧乏人が向上心とたゆまぬ努力で成功を収めるという話。序盤はこれでもかってくらいに悲惨なエピソードが続く。家を追い出され、女房が逃げ、息子と二人で駅のトイレに野宿してこらえきれずに涙するシーンは臨場感がある。しかしどんな逆教にあっても希望とユーモアは捨てない、そんな生き様がメッセージとなって米国風の味わいとなっている。
これは観てよかった映画だった。

NO.58「異形のひと」 2007−2−20
私は幼少の頃から異形、異端が大好きで、保守本流から外れた彼らの魅力にとても感じいっていたのである。
私が子供の頃、少年達のヒーローは王貞治であったが、私は王より南海ホークスの野村克也の方が好きだった。だから無理やり南海の帽子をかぶっていた。
ウルトラマンを見ても、ウルトラマンの強さや正義感などよりも怪獣の造形の異形さと、街を破壊したり地球を侵略する反社会?ぶりに惹かれていた。
勿論、楳図かずおは大好きな漫画家だった。彼の作品は異形、異端だらけである。
特に「猫目小僧」という作品が大好きだった。この作品は異形とポップさが妙にマッチしている傑作なのだ。妖怪である猫目小僧が世の中の不条理と戦うストーリーである。が、異端者同士の戦いの中に軽妙なポップさが含まれている。
手塚治虫の作品でも私はアトムやレオという倫理観あふれる王道より「三つ目がとおる」が好きだった。目が三つある超能力少年が自分独自の倫理の元に暴れまわるストーリーである。彼の主義主張はいつも社会の正義とは異なっている。独善的で暴力的、そこが大好きだった。
どうしてなのか、私は子供の頃から正義という言葉に懐疑的で、教師達の説く協調平和路線がしらじらしくて安っぽく思えた。
表面で仲良くしている大人同士が裏でいがみ合っていたり、平和の祭典のオリンピックが政治的理由でボイコットされたり、権力によるあからさまな差別があったり。
野球において、実績では歴代上位に入るパ・リーグの選手がお客が誰もいない、テレビも新聞も無視している球場で超一流のプレーをする一方で、原辰徳は三振してヘラヘラ笑っていても巨人軍の選手という事だけでチヤホヤされている、それらの矛盾は子供の目にも明らかだった。
そうした世間の汚濁に真っ向から挑んでいるのが異端者たちに見えたのだ。
異形、異端は迫害や差別を受けながら、それでも世の中に存在し続け消える事は無い。それは人間の本性は実は法や倫理の外にあるからではないのか?
隠そうとするものに真実は含まれているものである。
人間は本来、争いごとが好きな生き物なのだ。本性だけでは絶滅してしまうから倫理を作り上げただけの事である。
正義と倫理の権化、ウルトラマンは異端の海獣達を無差別に殺戮していく、このストーリーこそが集団生活の最大の象徴である。だからウルトラマンは世界に広まり滅びない。そして大人には観るに耐えない。

NO.57「映画 力道山」 2007−2−15
2004年 韓国。監督 ソン ヘソン
公開時に観れなかったので早速ワウワウで観た。伝記物というのは映画の間尺に合わないものだ。人の半生を描くのに2〜3時間の尺では締まりの無い散漫な印象が残りがちだ。これは監督の技量ではいかんともしがたい。この作品も同様である。
私は力道山の死後に生まれたので彼の活躍も当時の世相も活字のみでしか知らない。
彼は朝鮮人であるということから今の時代では想像もできない動物以下の差別を受ける。だから誰も信じられないし、生きていくことの基本にはマグマのような怒りがある。力道山という虚像を演じられなくなれば一介の朝鮮人に戻ってしまうという恐怖感が、狭矮なそして非道な行いに彼を駆り立ててしまうのだ。
人種差別を受けたものにしかできない奇行の数々がエピソードとしてつづられている。
中でも伝説となっている柔道王 木村政彦との対決は最早レスリングではなく殺戮であった。自分の地位を脅かす実力者に対して、事前の「引き分け」の打ち合わせも無視して殴る蹴るの暴行を加える力道山に私はかつての黒人ボクサーの姿を見た。
70年代以前のボクサーはとにかく怒りの塊だった。モハメド アリ、ジョージ フォアマン、トーマス ハーンズ、マービン ハグラー・・・目付きも試合内容もまさに「タマとりにいく」というような感じだった。
米国では徐々に黒人の地位も上がり、今では大統領候補にまでなろうかという、一昔前なら信じられないような時代である。
当然ボクサー達にも怒りは失せ、スマートな黒人選手が多くなった。そのせいか歴史を揺るがすような選手はいなくなった。
人を超えるというのがいわゆる超人なら、人を超える背景無しには多くを魅了する人間は現れないのだろうか?
差別の歴史こそがスーパースターの背景なら、人間は矛盾に満ち、争いは終わらないのだろう。
戻ってこの作品。主演の韓国人役者の日本語のつたなさが目にあまり、また演技も下手で、それが作品全体の質を著しく落としております。同じ内容の本を読むほうが数倍良いでしょう。

NO.56「納豆食って痩せるわけねえだろ」 2007−1−22
私はテレビが大嫌いである。うるさいし大袈裟で嘘だらけだから。NHKの大河ドラマなんて史実的にはでたらめが多く、演出も大袈裟で見てられない。あんなんで歴史を学んだ気になったら大間違いである。CMも誇大広告が多い。ジャロは何をやっているのだ?
そこで件の納豆事件。私の通っている市場では豆腐が品切れになる事はあっても納豆がなくなることなんて無かった、なのにこの10日くらいは全く陳列されてない。近所のスーパーにも無い。理由を尋ねたらテレビで「納豆食うと痩せる」と報道されたからだという。作り事のような事実である。テレビに洗脳されてこんなにバカが多くなったのか?
私は幼少の頃から毎日納豆を食っているが、この十年で体重は30キロ増えた。だいたい一つの食品を食い続けて体重が減ったらヤバイだろ。栄養失調か覚せい剤が混入しているかのどちらかだ。
今の風潮ではテレビの制作側に問題あり、と言う事だが、信じるほうも悪い。無知無関心此処にきわまれリである。詐欺が横行するわけである。
まずはテレビを消し、安易に情報を得る事を遮断すべし。新聞、本を読んで能動的に取り組んでこそ知識は血となり骨となるのだ。
こんなに簡単にテレビに乗せられる国民が多いから米国が舐めてかかり、小泉純一郎のような傀儡を駆使して日本を自由に操ろうとするのだ。改革せねばならない。
テレビ番組は全て有料化し、文学、歴史、科学、手塚治虫などの書物の値段は一律7割引にすべし。小学校の英語授業なんて廃止し、一年生から国文学と日本史を専攻させる。音楽は和音階をまず学習させ、尺八と琴を学ばせる。体育は柔道、剣道、ボクシングを必修とする。勝敗の判定は正々堂々と戦ったかどうかのみ。強くても決まり手が姑息な場合は負けとする。審判員は藤岡弘と藤原正彦にする。
しかしロックは自由に聴いてよい。ロックのCDは9割引きにするくらいの英断も必用である。
こうなれば日本も安心だ。

NO.55「梶原 原理教」 2007−1−16
故梶原一騎は日本の漫画史上に燦然と残るビッグネームである。漫画原作者の地位を著しく向上させた功労者でも有り、安保闘争に揺れる当時の世相を上手く読み込んでいた。
「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」「空手バカ一代」「愛と誠」などが代表作である。
彼の作品の特徴として登場人物がやたら熱血漢で変人で理屈っぽいというのがある。梶原の異様に鬱屈したコンプレックスやリビドーが噴出しまくった結果、今ならDVや幼児虐待として逮捕されてしまうような言動が平気で作品中にまかり通っている。
梶原は人気と実力があるだけでなく武芸の達人であり、押し出しも強いので作画者達は誰も彼に逆らえなかったらしく、それが作品の破天荒ぶりを一層強烈にしていった。だから、唯一口出しが許された、ちばてつやが描いた「あしたのジョー」だけはうっとうしさが薄められている。
私の幼少の頃はDVDはもちろんビデオも無くプレステなどのゲーム機も無く、テレビと漫画の娯楽に占める割合は高かった。だから彼の作品からは影響を受けまくった。
星飛雄馬が小学生の頃からギプスをつけて野球の猛特訓をしているのを見ると、野球大好き少年だった自分もそれに負けじと奇妙な特訓をしたり、ボクシング大好き少年でもあった私は、矢吹丈が鑑別所で通信教育を受けた「あしたの為にその1&その2」はもちろんそのまま練習した。矢吹丈はベッドを殴って練習していたが、ウチにはベッドが無かったので枕を柱にくくりつけて殴っていた。
私は梶原漫画の異常なひたむきさが好きだったし大袈裟な表現が大好きだった。いや、私だけではない、世の中みんなが好きだったのだ。
しかし時代は移り、軽薄短小を経て事なかれ主義が幅をきかせるようになり「あいだみつを」のような敗北主義が大受けするようになってきた。そして梶原は死んだ。実に嘆かわしい事である。
小泉純一郎の唱えた弱者を見殺しにする政策は文明国ではあってはならないものだと思うが、かといって負けてもいいや、などといってる奴はもっといけないと思う。
人目には滑稽に見えても愚直に勝利を目指して戦う姿、それこそが生を受けた者の使命ではないだろうか?
何に対しても怒らず無関心で投票にも行かない、梶原がいない現在の日本はファシズム前夜のような危機を感じざるを得ない。
私はできる範囲で毒をまきちらしていきたい。

NO.54「不良」 2006−11−27
不良とは読んで字のごとく「良く不らず」という意味なので、否定する時に使う言葉である。だからこの言葉が品物の前についていると購買意欲を失わせるが、人物評価として不良という言葉を使われると大概の人はまんざらでも無い顔をするものだ。そして大袈裟に否定してみせる。それは褒められた時にする動作と全く同じである。つまりうれしいのだ。
「俺、昔ワルでさぁー」などと、我慢できずに自ら言ってしまう人は100パーセント昔は不良ではなく、せいぜい悪い連中の使いっ走りである。
また、こういう人は大人になると「職人」と呼ばれたがる。協調性が無く幼稚なこだわりを持ち続けることが職人肌だと信じ込んでいるのだ。更に「俺は一匹狼でさぁー」なんて言い出したらかなりの重症である。だいたい狼とは群をなさない生き物なのに、わざわざそれに一匹という修飾語をつけて過度に独りを強調するのは、どこかが病んでいないとできない言葉使いである。
不良は悪であり、悪は無法であり、無法は自由とそして力である。だから不良という言葉には男としての魅力が満ち溢れているようにみえるのであろう。
しかしそうであろうか?平凡な日々をつつがなく生きていく事のほうが、忍耐力が必用で強い男の証明ではなかろうか?
ウチのお客さんで3人の子供をきちんと育て上げた夫婦がいらっしゃいますが、柔らかい口調で子育ての日々をとつとつと語られる、その姿に私は強さを感じるのであります。

NO.53「言葉狩り」 2006−10−30
このところ頻繁にいじめを苦にして子供が自殺している。由々しき事態である。しかしなんでもかんでもいじめを原因にすれば良いってもんじゃない。いじめの定義なんて無いからといって「いじめが悪い」の一点張りですべてをくくってしまうのは危険な事である。
子供は純粋である。だから残酷である。思ったままを口にして友達を傷つける事など日常茶飯事だ。私も幼少の頃いじめられもしたし、いじめた事もある。くさい、きたない、太っている、親の職業・・・理由は沢山ある。上級生にカネを盗られていた子もいたし、クラス全員の前で教師にデブと言われた女の子もいた。
先日、岐阜で中学生が自殺した。バスケットボール部に途中から所属して下手な事を他の部員になじられた事が原因らしい。新参者はどこでも古くからいる者の好奇の目にさらされ、場の雰囲気にすぐには溶け込めないものである。
冗談も言ってもらえないだろうし、気軽に挨拶もしてもらえない。排他性というのは単一民族の日本では古来からどこにでもあることである。それがいじめ、というなら集団生活で学ぶべき社交性はどこで身につければいいのか?さらに下手を下手と言うことがいじめならば団体競技は存続し得ない。
私は高校時代いくつかのバンドに加入した。一人のメンバーの力量が他のメンバーの力量に合わなければ、つまりどうやっても下手な者がいたら容赦なくクビにしていたし、自分もクビにされもした。それが団体競技のルールであると、暗黙に了解していたのである。それをいじめと呼んでいいのか?ならば、逆ならどうする?下手な一人の為にチームの成績が悪化したままのほうがよっぽど他のメンバーに対するいじめではないか。
こんな風潮が行き着くところは完全なる競争の排除である。自殺排除の名の下に努力、研鑽する力をそぎとっていったら一体どんな大人になると言うのだろう?学校という集団の中で何を学ぶのか?
よく考えてもらいたい、いじめは大人になってからの方が酷いのだ。郵政民営化などという愚策に反対して小泉純一郎に首を切られた代議士達。自民党が今になって選挙のために復党させろ、なんて言っているわけだからこれは完全に小泉によるいじめである。自由な論議を封殺し、反対意見の職を奪う、これは独裁といういじめではないか?
一国の総理大臣がこれなのだから、大人の世界は推して知るべしである。大人の世界には教師も親もいない。自分だけだ。
現実逃避的にリセットボタンを押すように死んでも、そこには天国もないし、生まれ変わりもしないのである。死んだら骨になって終わりである。激流に足を止めて立ち向かってこそ初めて見えてくる己の変化、それこそが生まれ変わりであり、乗り越えた頂から見えてくる景観こそ天国なのだ。
テレビで知ったかぶりをして善人面している連中の偽善的発言こそいじめであることに気付いて、今こそ命を粗末に考えている者の非を問わなくてはならない。このままでは言葉狩りが横行するだけである。
人間の世界にいじめは無くならない。死に逃げてはいけない。

NO.52「老人ヒーロー」 2006−10−3
先日「ウルトラマンメビウスとウルトラ兄弟」という映画を観にいった。ウルトラマンメビウスなんてどうでもいいのだが、かつてのウルトラ兄弟が、いやウルトラマンに変身していた役者達が出てくるというので観にいったのだ。
ウルトラマンは1966年に始まったのでハヤタもモロボシ ダンも今は当然ジジイである。40年も年取ったヒーロー達はかつぜつも悪く動きも鈍い。それに白髪頭だ。だが私の憧れ力はそんなものにはビクともしない。強い憧れは私の網膜にフィルターを備え付け、現在の彼らの姿を在りし日の姿として翻訳してくれるのだ。
古いヒーロー達は単なるツマではなく、なんと初めから最後まで出っぱなしでセリフも主人公よりやや少ない程度の高露出度であった。つまりこの作品ターゲットは今の子供達だけでなくかつての子供達でもあったのだ。
成長した子供達へのメッセージが込められている筈だった、が、ジジイになったヒーロー達は40年前となんら変わらず一方的な正義心の塊で、自己犠牲を強いまくる。そこには戦争を続けることへの疑問も反省も何も無い。40年間思考停止である。しかしかつての子供は40年という年月を経て世の中の様々な側面を見て成長してきたのである。聖戦と呼ばれた戦いに大いなる欺瞞が含まれている事も知っている年頃である。表面的なキャラクター構成では複雑な心情が表しきれるはずも無い。
暴力で敵対するものを暴力で抑えこむ、そのアメリカ的手法に限界は無いのか?侵略され続けるということは、つまりパンツ見せて歩いている女子高生的な、覗かれて文句言ってんじゃねえよ状態じゃなかったのか?地球はたんなる鎖国状態であって、宇宙人達は開国を求める異星の通商役人じゃないのか?困ったらウルトラマンという地球人の日米安保な姿勢に問題は無いのか?
ウルトラ4兄弟がいて一人くらい現状を否定して変身を拒む者がいたほうがリアリティーはあったはずだ。40年間、戦うことへの真摯な問いかけが無いままなら古いヒーローは単なるツマにして、郷愁だけを呼び起こす存在にした方がよかっただろう。

NO.51「文化温存」 2006−9−15
1945年に日本は米国に戦争で負けた。ボロ負けだった。無条件降伏だからありとあらゆる米国文化が日本を占拠した。街にあふれるカタカナ。リカーショップ、ドラッグストア、トラフィックインフォメーション、ウエザーニュース・・・酒屋、薬局、交通情報、天気予報じゃいけないのか?
まさに戦争の傷跡である。流行り歌さえもその歌詞に英語が入っていないのは希少である。日本のバンドなのに英語名というのがほとんどだ。チャゲ&飛鳥はいつの間にかChage&Asukaになってしまった。米助もヨネスケになってしまった。ちなみに私のバンドは矢沢工務店、きちんと日本語である。
あと数年したら小学校でも英語は必修になるらしい。そんな事をしたところで英語を操れる日本人が増えるわけが無い。子供の頃から語感を鍛えれば大人になってから使いこなせる、なんていう人もいるが、音楽は9年間必修なのに日本人の音感が優れているなんて聞いた事が無いし、楽器さえできる日本人は少ないではないか。
私のギターは独学である。だからかどうか下手である。
外国語よりもまずやらなければいけないことは日本語の徹底教育だと思う。日本語のカッコよさを真剣に伝えて欲しい。若者で日本語を数多く身にまとっているのは右翼と暴走族だけ、というのはいかがなものだろう?
そこでラジオは全てAMにする。FMの登場人物は英語を使いすぎである。Billy Joelは英語読みだと「ビィリィー ジョー」らしいが日本語読みだと「ビリー ジョエル」なのだ。最後のLまでしっかり読む。ここに家庭内でも土足で生活する人種とそうでない人種の差があるのだ。
車の名前も日本語統一。スカイライン、クラウン、レガシー・・・ではなく大空線、王冠、伝説機、紫電改、王室、琥珀などだ。戦闘機やソープランドと誤解されそうだが、その車にこめられた魂が伝わってくるではないか。
フランスでは自国以外の映画には上映の割り当てが決まっている。日本でも君が代や日の丸を強制する前に文化を保存し広める努力をすべきではないか?厳密に言えば漢字も外来文字か・・・

NO.50「時事 其乃二」 2006−8−5
読売巨人軍が最下位転落。
私は幼少の頃から野球が大好きだった。試合は毎日観戦、野球番組は見逃さず、自らいろんなチャートを作り、専門書を漁り読むくらい好きだった。自分の中の沢山の感情を野球に投影しては、遥かな未来に想いを馳せていた。
それから数十年。日本プロ野球界は大きな改革を幾つか断行し、ドラフト制度も廃止され、フリーエージェントという名の下に優秀な選手が人気球団 読売巨人軍に集まるようになった。読売以外の球団のオーナーも巨人軍が強くなる事が自らの繁栄とも言うような公然たる八百長発言も出てきた。
現在オリックスの清原選手は高卒時、巨人入団の夢を無残に破られ、ライバル球団である西武に入団し主力打者として活躍した。そして日本シリーズで巨人を破るその寸前に感極まって涙したのである。あまりの涙に一塁の守備がままならなくなり、先輩の辻二塁手が慰めにかけつけ試合は中断したのである。今でもあのときの光景はよく覚えている。
しかしその清原も数年後自らの意思で巨人軍に入団した。熱烈な西武ファンの吉永小百合が清原移籍に際して「清原くん、あの涙はなんだったの?」とコメントしていた。
目先の利益、権力構造、薄汚い大人の都合だけでルールを捻じ曲げ、純粋なファンを裏切り続けた日本プロ野球、読売巨人軍はいま迷走を続けている。当然のことである。
私は清原の巨人入団以来、日本プロ野球の試合を一試合も見ていない。あんなに好きだったプロ野球、今はどうでも良くなってしまった。
子供の頃、夢中でボールを追いかけた汗や泥はどこへいったのか?

NO.49「時事」 2006−8−3
昨日、ボクシングの試合があったらしい。
◇ガッツ石松さん「まいったね。なんで」
 テレビで観戦した元WBCライト級チャンピオンのガッツ石松さんは開口一番に「まいったね。なんでこの人が勝ちなの」と判定に不満を示した。ガッツさんの判定では、ランダエタが7ポイントもリードしていたという。
 そのうえでガッツさんは「亀田兄弟は人気があるかもしれないけど、この試合で勝てるのなら、ボクシング界は何をやっているのかと思われる。日本人は立っていれば、チャンピオンになれるの? 全世界のボクシング関係者に見せて、判定してもらえばいい」と首をかしげた。さらに「日本のボクシングはタレント養成所ではない。これがまかり通るなら、僕はボクシング関係の肩書は何もいらない」と怒っていた。
 漫画家のやくみつるさんも「非常に不愉快なものを見た。実況も最後の方は負けモードだったし、こういう判定になるとは。判定後の(亀田選手の)態度も疑問。あの場では勝者の振る舞いをしないと格好がつかないところもあるだろうが、大口をたたける試合内容ではなかった。態度を改めるべきではないか」と厳しく指摘した。
 ▽原田政彦(ファイティング原田)・日本ボクシング協会長 (判定が場内に告げられる前に会場を去り)きょうは何も言うことはないよ。
▽WBCバンタム級元王者・薬師寺保栄さん 自分の戦った経験から、亀田が4〜5ポイント負けていたと思う。亀田には「よう頑張ったな」と言えるかもしれないが「絶対勝ちだったな」とは言えないなあ。リングサイドで見ていた知り合いからも「この判定、どうなの」という電話ももらった。判定がクリーンなら、こんな問い合わせはない。今後悪い意味でボクシング界に影響する。

NO.48「やるじゃん、和田ちゃん」 2006−6−22
和田とはあの和田さんだ。贋作家、いや洋画家の和田義彦どんの事である。素晴らしい、実に私好みのニュースである。
この事件の顛末を簡単に説明しよう。洋画家?の和田さんが先日、芸術選奨文部科学大臣賞という大層な長ったらしい名前の賞を取り消されたのである。何故か?賞の対象となった彼の作品が盗作だからである。その数23。
私も何点か見たがこれは盗作を超えている、コピーである。完全コピーである。多少のアレンジを加えてあり少しだけオリジナルより良くなっているところが実に憎たらしい。
しかし本人は盗作を認めない。被盗作者のアルベルト スギさんと意見を交換しながら作った共同作業であるといっている。しかしスギさんは意見交換どころか和田さんとは浅い面識しかないと言っている。ガーン。自分は彼女だと思っているのに向こうは少しも彼氏だと認めてくれていないし、もちろん肉体関係も無いのに、勝手に盛り上がっている哀れな男のような状態である。
いろいろ突っ込まれると和田さん「一部はスギさんへのオマージュだよ」なんて言いだす始末。「セックスしてなけりゃ彼女じゃないって言うのかい?」なんて痛々しい言い訳をしている件の男のようだ。普通やるだろ、付き合っていると言うなら。
スギさんは日本では無名だからといって、賞を与えるほうも与えるほうだ。調べろよ、文部科学大臣なんて名前がついているんだから。受賞するほうも授賞するほうもまったくノーガード。盗作VS無知の壮絶な打ち合いである。
日本で音源が発売されていないバンドの曲を私が23曲コピーして作曲クレジットを自分の名前にして発売したらどうなるだろう?やっぱ売れたい、と思うんだろうな。発表してるんだから。初めはビクビクするけど3曲4曲出してお咎めなしなら態度もでかくなって、夢と現実の区別がつかなくなって俺は天才だ、なんて思ってしまうかもしれない。全く同じ曲なのに少しアレンジしただけでそこに勝手なオリジナリティーを見出したりしちゃってね。
スターウォーズが流行った30年まえ、日本ではそっくりの「宇宙からのメッセージ」という映画が公開されました。古畑任三郎。星野監督の時の中日のユニホームはメジャーのドジャースそのもの。荒野の七人は当初制作クレジットに黒澤の名前は無かったらしい。ジョージハリスンはソロになって初めての大ヒット曲が完全な盗作でした。
自信の無さとひがみは創作の大きなエネルギーなんだけどね。バレるのにやってしまう間抜さが人間くさくて大好きだ。やるじゃん、和田ちゃん。

NO.47「平成ライダーなめんなよ」 2006−5−13
仮面ライダーシリーズは私が幼少の頃から現在まで、多少の中断期間を経て脈々と続いている。
5歳の息子も現シリーズを熱中してみているが、同じライダーでも平成ライダーと呼ばれるシリーズは我々が見ていた頃とはだいぶ違うようだ。
3期前の「ライダーブレイド」ではイケ面のライダーが女とブティックに買い物に行き、鏡の前でネクタイを選びながら「俺、もうライダー辞めようかな・・・」なんて呟いたりする。彼は弱くていつも怪獣にやられていて、ライダー同士のスパーリングでも良いところが無い。だから戦闘意欲を失ってしまったらしい。素質はあるが根性の無いボクサーと同じ症状である。
そこで彼女の言葉が悪魔のささやきとなる「ねえ、もうライダーの仕事は辞めて私と南の島に行って暮らしましょうよ」
しょうも無い男に惚れる典型的な女の思考である。たいがい、ここから男はヒモ的な暮らしぶりとなるのだ。だいたいライダーとは仕事なのか?幼少の頃からライダーの活躍に胸を躍らせた私にとって裏切りとも言える衝撃的なセリフであった。藤岡弘は正義のために己を犠牲にして無償で闘ってくれたというのに、チャラチャラとデートして挙句にライダー辞めたいだと?辞めたいなら辞めろ、代わりに私がやってやる。
オリジナルライダーには原作者、石森章太郎お得意の悲哀があった。ヒーロー達は自らの意思に反して悪の軍団に改造人間とされ、変わり果てた己の肉体を呪いながらも純粋に世界の平和の為に闘う。そんな単純明快さがあった。しかし昨今のライダーは肉体の改造も経ず、ベルト一つで変身できてしまう。こんなファーストフード的なバックボーンで無償の闘いなどできるはずも無い。五年間の小泉政治の規制緩和、アメリカ追従主義の限界がこんな所にも現れているではないか。
更に2期前の「ライダー響鬼」では中学生が「俺も大きくなったら響鬼さんみたいにライダーになりたいな」などと無邪気な憧れを語っているのに、このライダーは少年に冷水を浴びせるがごとく「ライダーも良い事ばっかりじゃないんだよ。辛い事も多いんだぜ」などと突き放す。子供の憧れの的がこんな発言をしていいものか?
私が幼少の頃はほとんどの男の子が王貞治に憧れ、将来の夢は野球選手であった。「大人になったら野球選手になって王さんみたいに本塁打を沢山打つんだ」と誓い、王さんはそんな子供達をいつも励ましてくれていた。間違っても「野球界も楽じゃないよ、死球はあるしプライベートは制限されるし」などと愚痴ったりはしなかった。王さんはいつも紳士で子供の身方であった。
そんな王さんは子供を3人くらいぶら下げたまま一本足で立つ芸当を見せてくれたが、ライダーも子供をぶらさげたまま変身する心の余裕を見せてもらいたい。
こんなストーリーを子供の頃から見せられたら二十歳になってどんなものを面白がるのか、大人として不安を感じずにはいられない。

NO.46「パッチギを観たぜ」 2006−4−29
先日ワウワウで井筒和幸監督の映画「パッチギ」を観た。この作品は公開当時から話題を呼び、私が見逃してしまった悔しい一本のうちの一つであったので早速観た。
朝鮮と日本との間には数百年前から現在に至るまで様々な歴史がある。それは悲劇と呼ぶにはあまりにも凄惨な時間の積み重ねである。互いの恨みつらみは子々孫々まで受け継がれ、いがみ合う原因が分からなくなるほど根は深い。
当然、この二つの民族の間には友情も恋愛も許されない。互いがそれを求めていても歴史のうねりが決して許しはしない。
作品中で何度も流れるイムジン河という曲は朝鮮の曲で、日本では長らく発売も電波に乗せることも禁止されていた幻の曲である。平和を願う美しい曲なのに朝鮮総連も内閣調査室もそれを公共の電波に乗せることを断じて禁じていたのである。
イムジン河はこの作品の象徴である。この曲を知らなかった少年が、朝鮮の少女を通してこの曲に出会い、この曲のためにギターを習得し、電波に乗せて歌う事であらゆるしがらみを乗り越えようとするのである。パッチギとは壁を乗り越える、突き通す、頭突き、などの意味があるハングル語である。
日本と隣国の間には累々たる歴史があり、その真実のほとんどは公の教育課程に載らないまま現在に至っている。大戦前に我々の先祖の日本人が諸外国で何をやってきたかは専門の書物を読まない限り詳しくは知る事はできないのだ。こんな歪んだ教育の結果が現在の中国、韓国との政治的軋轢になっている事は間違いないだろう。
複数の国籍の歴史家による統一した歴史書を作ることが、大きな意味で世界平和につながるのではなかろうか?自らのしでかした行いを子や孫に隠し続けるなんて実に矮小で卑屈なものの考えである。こんな考えを引きずったまま仲良くしようなんてムシの良すぎる話である。
とまあ、そんなタブーだらけの問題に敢て正面から向き合ったのがこの作品。実に素晴らしかった。北野タケシの作品に代表されるような近年の日本映画の形式だけの軽薄さなどまるでない。岩のような信念に貫かれた尊厳きわまる娯楽大作なのだ。
このところ教育基本法などという馬鹿げた法律が審議されているが、国を愛せと言うならどういう国だったのか、をハッキリさせるほうが先なのだ。特に作家たる者は真実を追究する心を忘れてはならない、タブーに挑戦する気骨の無いものは筆を折れ、と言いたい。監督 井筒に作家の魂を見た。
最後にこの映画のクライマックスのセリフで締めたい。
大友康平扮するラジオ局のディレクターがイムジン河を放送するかどうかで上部ともめるシーンがある。彼は表現の自由を主張し身を捨てて放った言葉が以下である
「例え、どんな理由があろうともなあ、この世には歌っていけない歌なんか無いんだよ!銀河系のどこにも、天体望遠鏡で探してもそんなのはどこにもないんだ!」
「あの素晴らしい愛をもう一度」という曲が流れる中、日本人と朝鮮人のカップルが幸せそうに暮らすシーンで映画は終わる。

NO.45「悲劇のコレクション物語」 2006−4−2
私はビデオデッキを3台所有していた。先日そのうちの一台がこわれたので6500円で再生専用のDVDを買ってきた。壊れた一台はどうせ再生専用にしていたし、最近のレンタル屋はDVDが主流なので懸命な買い物であると判断した。残りの二台もそんな理屈で壊れればDVDに換えていくつもりであった。
しかし先日とっても恐ろしいことに気付いた。私はそこそこのビデオコレクターなので約600本のビデオを所有している。我が家のビデオデッキが全てDVDになったらその600本はどうなるのだ?永遠に再生する事のできないゴミと化してしまうではないか!慌てて調べたところ大手のメーカーはもうビデオデッキを生産していないという、ガーン!
ならば時間はかかるが600本のビデオを順にDVDにしていけば良いと思うだろうが、そんな作業が終了する頃には世の中はブルーレイディスクが席巻しDVDは過去の遺物になっているかもしれない。
とりあえず、ビデオデッキを数台買いだめして急場を凌ぐ事に決めたのだ。もし私がDVDを買ってしまったら、それはすぐに廃れていってしまう気がしたのだ。その理由は以下だ。
我が家に初めてビデオデッキが来たのは私が小学生の頃だった。機種はベータであった。ベータといっても若い人は判らないだろうが当時のビデオは方式が二通りあってVHSとベータに分かれていた。
初めこそシュアは半々であったが間もなくVHSが圧勝した。私の初期の映画コレクション、エロビデオコレクション、初めて組んだバンドの映像もみんなベータだったので、もう見る事はできないのだ。大人に翻弄された若者の悲劇である。
それから数年後、レーザーディスクというものが現れた。画像はビデオより美しく劣化も少ない。まさにコレクターの心をくすぐる未来の映像商品だ。レーザーというネーミングもアニメの必殺武器みたいでカッコいい。私は生活必需品も買わずに切り詰めて5万円でデッキを買い、好きなバンドのディスクを買い集め、尊敬する黒澤明の作品を16万もはたいて収集した。期待通りの美しい画面、綺麗な音質。言う事なしだった、が、未来の品物の筈なのにA面B面があることが気掛かりだったし、使い勝手は悪いし値は張るし・・・現実に向うのが怖かったので目をそらし続けているうちにレーザーディスクは死んでしまった。またやられた・・・
それから数年、MDが登場した。まさに私の求めていた未来の記憶媒体であった。デジタルだから倍速ダビングできるし編集も簡単だし小さいし。ドラえもんのポケットから出てきました、と言われても疑う余地の無いノーベル賞的発明だと思った。だからデッキは用途に合わせて3台も買い、車のデッキもMDに換えたのだ、が、僅か数年で消えてなくなり今はもっと画期的なアイポッドに変わってしまった。
私が手を出す電化製品はすぐに廃れる運命らしい・・・
再生機を必要とする記録物を集める事はあまり意味のあることではないらしい。物理的な劣化と時間の劣化にはどうやっても太刀打ちできない。今、せっせと録り集めている子供の映像も、いずれゴミと化す日がくるのだろう。感動はとどめる事ができないから、その一瞬を大事に扱うべきなのだろう。そう言い聞かせて相変わらずビデオをまわしている。

NO.44「悲惨な映画事件」 2006−3−5
先週、課長P氏に映画のチケットを二枚貰ったので二度映画館に足をはこんだ。
「フライトプラン」と「オリバーツイスト」を観た。我ながらミーハーな選択だ。
私はジョディーフォスターのファンであり、サスペンスものが好きなので前記の作品を選んだが、これが駄作中の駄作。ジョディーフォスターの出ている映画は20本近く観たが、その中で最低の映画であった。ここにその内容を記すのもはばかられるほどつまらない。悪役は眠そうな顔で迫力はないし、細部が雑だし、機長の息遣いは荒いし・・・とにかく時間を無駄にしたい人にお勧めの映画だ。このつまらなさは最近の日本映画に匹敵する。ただ中途半端なつまらなさで、怒りで歯軋りするほどではないので、そこいらあたりもまた脱力感を味わえる映画なのである。
後記の作品も決して面白くない。いたいけな子供が運命にもてあそばれていじめられ最後にハッピーになるというもの。この子は結構いじめられるが「フランダースの犬」のネロに比べれば大した事じゃない。泣きたいと思って見るなら不満が残るだろう。ポランスキーは前作「戦場のピアニスト」が受けたものだから同じような悲惨路線で勝負したつもりが全く裏目に出た感じだ。まあこの映画も敢て見る必要はないだろう。
しかしまあ、最近の映画館は綺麗で事務的で個性がまるで無い。シネコンと呼ばれるものが各地にできているが、かかっているのはこの国のものと米国のものばかり。誰かが後ろで大衆を操っているかのような不自然さだ。米国の正義や倫理が、さも全てであるような気にさせられるのはこんな小さな所にも原因があるのではないか?
私は23の時、伊勢崎町の映画館でアルバイトをしていた。時給は540円と格安だったが横浜中の映画館の招待券をタダもらえるという特典があった。伊勢佐木界隈には個性的な館が多く、日の出町の駅前にはホモセクシュアル専門の映画館があった。そこの招待券は黒一色の中央に赤い薔薇が咲いているという、とんでもなく個性的なものだった。「義経伝説」やら「君とボク」などという映画がかかっていた。恐ろしい噂をよく聞いたので私は行かなかったが、話の種に行っておくべきだった。
その隣にはポルノ映画館があり、そこには一度だけ行った。なぜか中途半端なことに二週ずつポルノと一般の映画を交互にかけていた。
1990年頃、「パガニーニホラー」という洋画がかかっていた。私は前年に狂気のバイオリニスト、ニコロ パガニーニの曲を聴いて深く感銘を受けていたので早速観にいった。しかし映画はパガニーニとは何の関係も無く、最低の予算で最低の監督が最低の脚本で最低の俳優をつかって作った、ゴールデンラズベリー賞にも相手にされない様なゴミ映画であった。
酷いことにその館は、いびきと野次と咀嚼の音が充満し、所々異臭が立ちこめていた。私の友人はそこでネズミが走り回っているのを目撃し、トイレではオッサンが自分の一物をしごきながら微笑みかけてきたと言っていた。
まるで流刑地のようなその館は、でもたしかに庶民の娯楽の場でもあったのだ。

NO.43「カーリング野郎」 2006−2−22
私は運動会が大嫌いなのでワールドカップもオリンピックも全く興味がない。しかし先日偶然に見てしまった。それはカーリングである。衝撃映像だった。
初めはNHKの深夜の趣味講座かと思った。年寄り向けのゲートボール講座とか、園芸講座の一種に違いないと思った。あんなに緊張感がなくてスピードがなくて単純そうなものがまさかオリンピック種目だなんて。なんなんだアレは?ルールは判らないし知りたくないが楽しそうだ。やってみたい。幅跳びやハンマー投げ、競泳なんてやる気にはならないが、カーリングはやる気にさせられる。まるでゲームセンターにあるかのような親密感がある。
カーリングを知らない人のために外見だけ説明するが、数メートル先の円をめがけて氷上で大きな石を滑らす。滑っていく石と共に二人の人間がデッキブラシを持って石の行く先を掃き清めながら滑っていく。2チーム対抗で円内の位置を取り合う。つまりは、おはじきを大型化してわざわざ氷の上に持って行ったようなものだ。
石を放つのも、高速で掃除するのも簡単ではない。今すぐやって私が彼らにかなうわけも無い。しかしこれのどこがスポーツなのかわからない。私はゴルフがスポーツだという事もよく理解できない人間なのでカーリングは尚更わからない。恐らく冬季の運動種目が少ないから苦肉の策で入れてしまったようなモノなのではあるまいか?
だいたい球を投げてその行く先を大人二人がブラシで先導するなんて許されるのか?ゴルフやって球の転がる先の芝を刈り込んだり、バドミントンの羽を大きなうちわで扇いだら反則だろう。あの公然たる反則が面白い。あの作業なら清掃局の中にも隠れた人材が見つかるかもしれない。
カーリングをスポーツだというなら缶蹴りや達磨さんが転んだもオリンピック種目に入れて欲しいし、ゲームセンターにあるエアホッケーのほうがよっぽどスポーツらしいではないか。
達磨さんが転んだは反射神経とスピード、判断力、そのどれもが高いレベルで整っていなければ勝利者とはなれないし、「達磨さんが転んだ」と叫ぶ鬼役も駆け引きの鋭さと滑舌の良さ、そして動体視力の良さを求められる。
缶蹴りは守備側はしなやかな脚力と注意力が求められ、攻撃側は多彩なフォーメーションと判断力、スピードと勇気が必要だ。まさに校庭の格闘技である。
アフリカ人やイタリア人が「ダルマサンガ コロンダ」と叫ぶ所を世界中継で観て見たい・・・どうでもいいか。

NO.42「宝くじは買わない」 2006−1−20
ライブドアに検察の家宅捜索が入ったのは17日のことだ。社長の堀江の逮捕も近い事だろう。
この堀江なる人物はかなり人気があるようで、若い起業家と呼ばれる連中からは羨望の目で見られているらしい。私はかなり以前から、この男の品の無さと教養の無さを感じていたから下らぬ一芸能人くらいにしか見えなかった。堀江を崇める連中も同じ事。
若者が既成の体制に反抗して若さゆえの自由な発想で古狸と闘っている、という見方があるようだが彼のやっている事はイデオロギーの闘いではなく、単なる揚げ足取りにしか私には見えなかった。どこに行くのでもTシャツ姿というのは自由な発想ではなく礼儀知らずな蛮行である。どういう思想の持主でも社会的に地位のある先輩に対してはそれなりの礼儀を尽くすのが人の道である。それを履き違えた姿がまさにあのみっともないTシャツ姿である。それを愚かな連中がはやし立てるから、また増長する。あれがおかしいと思えない人は感性が枯渇した病人である。
この男の発言は傍若無人を極め「人の心もカネで買える」とまで言っている。よほど育ちが悪いか、まともな文化を全く享受してこなかったかのいずれかだ。馬鹿が群がるから世の中みんな馬鹿だと思えてしまうのだろう。三流芸能人を彼女にしているのも滑稽である。
かつて矢沢永吉は芸能界の長者番付で一位になり、五万人のライブを日本人として始めて成功させた28歳の時、その自伝の中でこういっている。
「女の愛情も、カネで買える。言っちゃ悪いけど。・・・・全部カネで買える。島も買える。・・・俺の正義って言ったらゼニだ。ゼニさえあれば正義も悪魔も全部買える。
・・・・ほんとはゼニじゃないのよ。ほんとはゼニじゃない。俺に、こんなにゼニだって思わせた何かに腹立ってる。そう思わせて28年間やってこさせた何か。
ほんと、悲しい、実は。・・・・女房。ゼニで買えない。ほんとの気持ちは、そうさ。ゼニじゃない・・・。」
堀江は金持ちだろうが何もこの世に生み出してはいない。想像力の欠如した哀れな男だ。いくら大金を稼いでも、モノを作り出した人間とそうでない人間の差がそこにある。
私はカネを稼いだ事もカネに困った事も無い人間だ。しかしカネは手段であって目的ではない。それだけはなんとなく判るのだ。
毎日PCの前に座って10分ほどで20億儲けて、それが幸せだと思わないしうらやましくも無い。だから私は宝くじを買わないのである。

NO.41「サイズ」 2006−1−17
このところアイポッドなる音楽再生機が急速に普及しているらしい。ライター程度の大きさで7000曲も収録され音質も良く音飛びも無いとのこと。便利である。
近年の携帯電話の進化も目覚しい。機能がありすぎて、もはや電話ではなくなっているかのようだ。便利なのであろう。
CDが本格的に普及しだしたのは87年頃だろうか?レコード店からは見事にレコードが無くなりCDに取って変わられた。私はどうしてもCDに馴染めずに、この21世紀に入ってもレコードを買い集めている。CDがCDゆえの小ささがどうしても気に入らない。ダイナミックな音楽に葉書程度の大きさの器は分不相応なのである。音が良いというのもまやかしであって、実際のバンドの音はCDのように各楽器がはっきり聴こえてきはしない。一体感のなかで繰り広げられるのだ。聴こえなくて良い所まで聴こえてしまう事は決して良い事ではない。
ことロックに関して言えばCDを表現手段とした段階で、もうロックではない。AC/DCのバックインブラックという80年発表の名作はレコードで聴いてのみ名作である。
話をアイポッドに戻す。7000曲?いらないでしょ?どんなものにも、それにあった器の大きさというものがある。人の心を震わすような音楽はあんな小さな器に収まって良いものではないのだ。しかも7000曲。情緒を便利に簡単に引き渡していいのだろうか?
モノにはそれに合った大きさがある。このバランスが崩れると人間の心は知らぬ間に機械に変わっていくことだろう。

NO.40「銀次郎だす」改訂版 2005−11−11
なんでも今日は鮭の日らしい。
先日「ミナミの帝王」という漫画を読んだ。この作品はとても人気があるらしく単行本も80冊近くは出ている。これが面白かった。大阪はミナミという繁華街で不法な高利でカネを貸し付ける男の話だ。この手の金融漫画は「ナニワ金融道」が先駆けのように思う。「ナニワ」は大阪のまち金の話だが、とにかく登場人物がコレでもかってくらいにエグかった。欲望丸出しで理性のかけらも無い有象無象達が汚い騙し合いをしている姿をリアルに描いていた。登場人物は主人公を含めて善人など皆無で己の欲のことしか考えていない。
「ミナミ」も登場人物は曲者が多いが主人公銀次郎は善人である。彼にはこれといった欲も野望も無い、だから人も騙さないし汚いやり方もしない。法の外で生きているクセに正義感が有り人情家なのである。直接カネにもならないのに人助けに尽力したりする様は血も涙も無い闇金の帝王としてのキャラクターとしてはあまりにもリアリティーが無いがそこにこの作品のポイントがある。
この作品は主人公のキャラクターに依存して成り立っているものではなく、日常の瑣末なトラブルこそが主人公である。帝王 銀次郎はあくまで狂言回しである。だから、あらゆる問題が起こってから主人公の登場となる。だから週間連載で3週目あたりにやっとセリフらしいセリフが出てくるというときもある
隣人とのトラブル、株、土地売買、別れ話、会社経営・・・これらの諸問題の解決手段として何よりも有効なのがカネだ。しかしなんの担保もなくその場で手にできるカネほど危ういものは無い、それは解決したのではなく答えを先送りにしただけの事だからだ。
急場さえしのげれば良い、という甘い考えに対して「カネは命の次に大切である」という言葉ですごみ、高利の地獄のゼニを貸し付ける。
借りた側が自分の甘さに気づき、それでもまだ前向きに頑張ろうとする時、主人公銀次郎は巧妙な手段でそんな落ちかけた人たちを救っていく。
銀次郎はカネが天使にも悪魔にもなる事を熟知しており、そんな魔物を軽く扱おうとする輩に厳しく道を諭す達観した存在なのだ。この作品にリアリティーを追求すれば銀次郎は血も涙も無いまるでゴルゴ13のような人物になってしまうが、人間に対する優しさを持たすことで読後は爽快な気分になるのである。大阪ミナミの表社会裏社会の実力者達が、銀次郎の名を聞いて恐れおののく様はまるで水戸黄門の印籠出現の時のような痛快感があるのだ。

NO.39「四股名全開バリバリ」 2005−9−26
大相撲は国技なのでその優勝者は一般紙の一面で報じられる。先場所もモンゴル人力士が優勝したらしく、また最後まで話題になった力士もブルガリア人で、何やら国技に相当な国際化がはじまっているらしい。私はこんな風潮を歓迎すべきだと思う。外国人というが、チョンマゲ結ってふんどし締めているのに「ガイジン」呼ばわりは無いだろうと思うのだ。
私が気にかかるのは四股名である。
外国人力士としてのパイオニアは高見山だろう。良い四股名だ。続く小錦。これは伝統ある四股名である。曙、まあ良い。武蔵丸、強そうだ。
そして21世紀。力士は米国、モンゴルだけでなくロシア、東欧からもやってきた。ここに現役欧州出身力士の名前の一覧があるのでその一部を記したい。
ブルガリア出身だから琴欧州、グルジア出身だから黒海。工夫が無いが気持ちは分かる。ロシア出身の二人は露鵬に白露山だ。露を付ければ良いってもんじゃない。鵬は中国の想像上の大きな鳥である。ロシアにまで飛んでいったのだろうか?漢字の意味を調べる前にまず語呂という発想が軽薄ではなかろうか?
エストニア出身で把瑠都とうのがいる。何と読むのだろうか?田舎の喫茶店にありそうな名前である。だいたいこの漢字の羅列からは何も想像できない。いっそのことカタカナにしてしまえば良い。漢字の意味がまるで無い。更に幕下のロシア出身者に阿夢露と大露羅といのがいる。まるで80年代前半の暴走族みたいだ。そろそろ仏恥義理とかいうインド出身の力士が出てきてもおかしくない。
とまあ、あまりに酷かったから書いてみた。その昔ゴダイゴも歌っていたではないか、名前は命なのである。

NO.38「ウルトラマン世代の世界観」 2005−9−16
20世紀の最も偉大な音楽家はビートルズであろう。世界中の各家庭に一枚、というくらい現在も売れまくっている。彼らの浸透力、また影響力は他のどんな芸術家、スポーツ選手、政治家より大きい。まさしく神である。
しかしここ日本ではビートルズを凌ぐ影響力を持つものがある。それはウルトラマンである。
ウルトラマンシリーズが登場したのは1966年。その第一シリーズは平均視聴率30パーセントを軽くこえている。一年の間毎週毎週サッカーのワールドカップ的な盛り上がりを見せていたのだ。
シリーズは中断期間もあったが現在も脈々と続いているので40歳以下は満遍なく彼らの洗礼を受けているといっても過言ではない。その露出度はテレビは勿論、映画、競輪の宣伝、フィギア、カード、パチンコとビートルズのそれを遥かに凌ぐ。
私の私的な調査によるとビートルズの曲を知らなくとも怪獣の名前はしっているという若者の方が多いという結果が出た。バルタン星人、エレキング、ピグモン、カネゴン、レッドキング・・・心当たりがあるでしょう?
力道山の時代から日本ではプロレスの人気が衰えない。現在もプロレスはK-1,プライドと呼び名を変えて存続している。人気が衰えない理由は一つ、K-1やプライドなどの根底にはウルトラマンがあるからなのだ。平和憲法によって戦争を放棄した日本は戦いを架空の世界に求めグレイシーやらボブサップやら次々とインチキくさいキャラクターを創り出してきた。
グレイシーの過去や細かい戦績は不明瞭で400戦無敗というキャッチコピーだけが流布されている。だいたい真剣勝負で400戦無敗なんて事があるわけない。だいたいその400戦はどこの組織が管理した戦績なのだ?この胡散臭さは最強宇宙人というキャラクターと酷似しているではないか?
総合格闘技と呼ばれるものが厳格なルールの下に真剣勝負をするならここまで人気が盛り上がる筈も無い。
K-1の創始者は脱税で有罪判決を受けたが、そんないい加減なところがウルトラマン世代にはたまらない魅力的な香りなのである。
ウルトラマンは政治の世界にも影響を与える。小泉が馬鹿の一つ覚えのように唱える「改革」「郵政民営化」は根拠の乏しい判りやすさだけの必殺技であるからウルトラマン世代には受け入れやすい。スペシウム光線の原理は解明不可能である。
一方民主党の岡田はその演説や物腰が抑揚が無く単調で、それは怪獣の鳴き声や動作を喚起させる。勝てるわけが無い。
また小泉の弱者や自分の意見に沿わない者を切り捨てる非道さは、これもウルトラマン譲りなのだ。ウルトラマンが退治する怪獣のほとんどは以前から地球に棲む在来種、恐竜の亜種である。いわば怪獣も地球上の正当な住民なのである。なのに共存の努力もせずに殺しまくるというのは非道といわずになんというのか。ウルトラと名乗るからには無血解決をするべきなのである。
また、ウルトラマンは怪獣を退治する名目で民家や街を破壊しまくる。逃げ遅れた貧乏人や老人、社会的弱者は怪獣ではなくウルトラマンに踏み潰されて圧死である。人生色々なんていってる場合じゃない。こんなに被害に合い矛盾に満ちているのに民衆はウルトラマンを支持する。ウルトラマンは地球人のために闘っているように見えるがそれは違う。生態系を破壊し海を汚しまくるスポーツフィシングとなんら変わりないのだ。あいつら怪獣狩りに地球に来てるに違いない。
プロレスラー議員に守られた小泉が今後もむちゃくちゃな狩りを進めていくのを横目に私は息子のウルトラマン熱を冷ませずにいる。

NO.37「ロック焼鳥」 2005−8−6
20代の頃、音楽が趣味と言い続けてきた。ここでいう音楽とはロックからジャズからクラシックから全てをひっくるめての事だ。私はロックマニアだからロックがクラシック達より一段低く見られるのが悔しくてそれなりにクラシックも聴き、クラシック音楽家の伝記を読んで勉強した。好きになるように努力したのである。
結果クラシックとロックは根本は全く同じで時代と表現方法が違うだけの事という結論をだした。
しかし齢40に近づき社会全体が見えてくるようになると以前とは全く違った感想を持つようになった。
ロックミュージシャンはカッコいいと思いがちだが実はかなり滑稽な間抜けな連中なのである。
世界的に人気ロックシンガーのオジーオズボーンは青いピチピチのシャツにエルビスのような白いフリンジをつけ胸に銀色で「OZZY」と縫い付けた衣装を着て歌っていた。ヘビーメタルのロックスターがどうしてシャツに胸に自分の名前を縫い付けるのだろうか?一体誰のシャツと区別したかったのだろう?矢沢永吉でさえ自分の名前を胸にプリントしたりはしない。
キッスのジーンシモンズは怪物のような衣装を着けて、ガニ股になって血糊を吐きながら演奏し、メンバーのエースフレーリーはギターのヘッドの先からロケットを発射させながら演奏している。血もロケットも曲に何の関係もないのに。
その様は私が幼少の頃はやった八面筆箱みたいであった。八面筆箱とは八つも入れ口のある筆箱のことなのだが、八つの入れ口は実用的な用途は何も無い。子供が無意味なゴージャスさに喜ぶ事を目論んだ間抜け商品である。
ミックジャガーもフレディ マーキュリーもその成功とは裏腹にステージ上での動きは間抜そのものである。
衣装や動きに個性を出さないクラシックはまさに音楽だけで勝負しているのである。
楽器に関してもクラシックで使用するバイオリンに比べれば造りから音色からエレキギターなんておもちゃみたいなものである。
ロックとクラシックは全く違う。
しかし高級料亭ばかりが美味いものを出すわけではない。川沿いの屋台の串焼きだって美味いし、田舎のラーメン屋も美味い所は沢山ある。銀座の高級クラブで飲む酒だけが美味い酒じゃない。
B級はB級ゆえに味わい深いものなのである。私は音楽愛好家ではなく、単なるロックマニアにすぎない。

NO.36「敗戦の朝」 2005−7−23
何かでかい仕事をやり遂げた時や自分の思う通りに事が進んだ時など、自分に不可能はないと思い、世の中の全ての視線が自分に集まってきているように錯覚してしまう。だから人に優しくしたり言動に気を使ったり、きっと表情も晴れやかだと思う。
しかし大きな失敗をすると悔しくて悲しくて前を向いて歩けなくなる。自分はこんなに悲しいのに世間には何の変哲も無い事が矛盾に思えてしまう。太陽が沈み、また昇って一日が昨日と同じように始まる事が何故かもの悲しく感じる。自分がこんなに落ち込んでいる時は日食のような一日であってもいいじゃないか、などと馬鹿なことを思う。
往年の名ゴルフプレイヤーの言葉に「勝った試合からは発見は無いが、敗北の中には学ぶものが多い」というのがある。まさにその通りで、ああしときゃよかった、こうしときゃよかった、反省が山ほど出てくる。それを次に生かすべく努力をするのだが、失敗後に踏み出す第一歩は重くそして勇気がいるものだ。
でも結局は自分を信用する事が大切で、そこさえしっかりしていればどうにでも立て直しは利くものだろう。
捲土重来、川嶋勝重に期待する。

NO.35「歴史問題」 2005−6−7
店での話題は様々なものがある。なかでも時事ネタはその多くを占める。あらゆる話題について我が店ではトラブルに発展する事はまず無いし、険悪なムードになる事も無い。お客様に恵まれているというか皆様に気を遣っていただいている。まあ、やたら喧嘩を吹っかけるような人はウチに合わないのかもしれないのだが。
だが少々趣の異なる話題があった。首相 小泉純一郎の靖国神社参拝の問題である。議論になった訳でもないし意見が衝突したわけでもない。なのにこの話題の後は少し雰囲気が重くなってしまった。その原因はこの問題の根本に戦争があるからだと思う。
古今東西を問わず戦で人の死ななかった例は無い。だから戦争はいつでも悲惨なものでそこには勝者も無ければ敗者も無い。戦勝国にも敗戦国にも大きな傷跡は残る。国が戦争に勝っても息子が死ねばうれしい筈も無く、大量殺戮兵器のボタンを押した者はそこにどんな大義名分があったにせよ一生大きな十字架を背負って生きて行く事になるだろう。矛盾した理屈だが戦争には殺した方、殺された方の双方に最もな言い分がある。それは決して倫理や常識で判断できるものではないのだ。
六月十六日号の「週間新潮」で首相の靖国参拝のに関して21人の各界著名人が意見を述べている。それらを冷静に読んでみたところ、参拝すべきでないという人の意見の方が論理的に筋が通っているように思えた。参拝すべき、という人たちはいささか感情が先にたちすぎていて論理に矛盾や誤りがあるように思えた。
しかし参拝すべき派の中にいたあの小野田寛郎さんの意見は、そのほとんどが感情的な理屈であるにも関わらず否定できない重みがあった。実際、戦場にいた人にとっては祖国の宰相の戦没者への参拝は己の尊厳の正当性そのものなのかもしれない。だから、そもそもこういう人に意見を求める事自体他の人とのバランスに欠けていると思う。
参拝といっても国際問題であるから、まずは正義や理屈より国益を最優先すべきだと思う。その為には事柄全てを冷静に数学的に解釈する必用がある。その第一歩は正しい歴史認識だ。
私が小中学生の頃、社会科で学んだ二次大戦のアジアに関する事柄はせいぜい満州事変や朝鮮の植民地化くらいしか無かった。ところが実際はそんなに狭い範囲のものではなかった。旧日本軍による戦闘の跡は東アジア全域に広がっていたのだった。
16の時、ボーイスカウトの海外遠征でフィリピンに行った時、現地で旧日本兵が使っていた牢獄を見た。日本軍が地元の人を捕らえて入れていたと聞いた。学校で習わなかったリアルな歴史がそこにあった。老朽化した傷跡が40年経ってもそのまま残されている事に戦争の悲惨さ、怨念を見た気がした。そしてそんな事も知らずにかの地に赴いた軽薄な自分を恥じた。
五年くらい前から、日本、韓国、中国の歴史学者が集まって共通の教科書を創るという動きがあるらしい。歴史が主体によって異なる事を矛盾とするならとても意義のある試みだと思う。
まずは冷静に事実を知る事教える事、それが大切なのではあるまいか?
終戦から60年も経って、こんな田舎の店にさえ気まずい雰囲気をもたらすなんて、争いごとがいかに愚かなものか我々は今一度学びなおす必要があるのではないか?

NO.34「本のタイトル」 2005−5−2
CDを買う時、そのタイトルを判断基準にする人は少ないだろう、映画もまたしかり。しかし書店でまず目が行くのは奇抜なタイトルの本であり、実際に良く売れるのはそうした本らしい。
先ごろ売れまくった「バカにつける薬」や「100億稼ぐ・・・」なんて、まずほとんどの人がその内容に興味を示すと思う。しかし古来から「バカは死ななきゃ治らない」と言われているし、1500円程度の出費で100億稼がれたら世界の経済は破綻するに違いない。
「頭が良い人、悪い人の話し方」という本が100万部売れた事に便乗して、同じ作者が第二段「頭が良い人の恋愛術」という本を出したらしい。ここにその広告があり、本の概略が書いてある。
女にモテる男のタイプを大きく五つに区分してそれぞれに八つの小見出しをくっつけている。ご丁寧な事に五つの章それぞれにその内容を表現した男の表情のイラストが載っている。
1、母性本能 2、頼りがい 3、知的 4、やさしい 5、危険な匂い
上記の五つを表すイラストが笑える。黒ぶちメガネをかけた江守徹というか吉田拓郎風の男がニカッと笑ってVサインを出しているのが1、つまり母性本能をくすぐる顔らしい。渋い顔をして握りこぶしを作っているのが2で、顎を上げ斜に構えてメガネに手をあてて薄ら笑いをしているのが3、うっとりした顔で両手を開いて両頬を触っているのが4、顎を引き上目にメガネをずらしてバカにした笑い顔を浮かべているのが5。このイラストのモデルが作者だったらもっと笑えたが、そうではないらしい。
さらに怒涛の小見出しが続く
1の方法として「デートは映画が最適、一緒に涙を流せ」「一か八かケンかをしかけて謝れ」とのたまわれる。泣く事や謝る事が母性本能を刺激するのだろうか?母性本能とはこんなに軽薄なものではないだろう。
2はさらに凄まじい「実際はどうあれ、人格者をめざせ」「楽しみながら、手軽に教養をつけよ」手軽や実際はどうあれってところが気にかかる。本当にそれで頼れるというのか?手軽じゃないから頼りがいがあるんじゃないだろうか?
3も凄い「手軽に役立つネタ本をみつけろ」「知的に見えるポーズを練習しておけ」「自分なりの口癖をつくれ」「比較的高価な贈り物で印象ずけよ」口癖って何なんだ?口癖があると知的に見えるのか?ポーズは角度によって違うから位置の取り方が不自然にならない事を祈るばかりだ。右の角度がいいからって、常に右回りでは何かと不都合だろう。高価ではなくて比較的高価というのがポイントだ。そこに知性があるのだとすれば買い物上手という点だけの事だ。全くわからん。
続いて4、「アンテナを広げて町をうろつけ」「ライバルの女の悪口で近づけ」うろつけって言葉が凄い。うろついて優しさを養っても頼りがいや知性を失わないように気をつけてもらいたい。大多数の女はライバルの悪口が大好物なんて、女性蔑視発言といわれないように注意すべし。
そしていよいよメインの5「現実味のある架空の過去をでっち上げろ」「きれいごとの良識派を憎み、ひねくれよ」「言葉を濁して、もったいぶれ」「裏の世界にも少しは出入りしろ」でっちあげろって言葉がいかがわしくて素晴らしい。憎みとかひねくれよ、とかまるで武装勢力だな。もったいぶる奴はもてるのか?しかし素直な人には嫌われるだろうな。裏の世界ってのが素晴らしすぎる。どういう世界だ?これだけを解説した本を出してもらいたい。競輪場や風俗営業のことを言ってるのだろうか?裏と言うからには最低限、非合法の世界を期待してしまうが著者は大学教授であることを考えてみるとたいした裏は期待できないだろう。
この本を読んだわけではないのでなんともいえないが、読み方によっては楽しそうな本だ。定価は1365円と手頃だからタイトルだけで買ってしまう人も多いだろう。頭の良い人には不要だろうが。

NO.33「傑作の意味」 2005−3−8
立花隆が映画「地獄の黙示録」を解説している本をよんだ。件の映画は娯楽でありながらそれを超えた非常に文学性の高い秀逸な作品であるという事だ。私もこの映画を観たとき、その深さを少しは感じたがそこまで深くは読み取れなかった。見終わった後、決して面白かったという印象を持つ映画ではなかったが、また見たい気にさせられる不思議な作品であった事を憶えている。
ところで、立花氏はその本の中で「地獄の黙示録」を不完全な作品であると言い切っている。中身の充実、問題意識の深さと鋭さのスケールを大きくするなら完成度は犠牲にならざるをえない、とした上で同様の例としてドストエフスキーを挙げ、人々に今も愛されている作品は完成度の高い「罪と罰」「貧しき人々」ではなく、いたるところに破綻のある「カラマーゾフの兄弟」であると言っている。
私はロックに同様の例を見つけたので恐縮だがここに付け加えたい。それはピンクフロイドの最高傑作は「狂気」であり「ザ ウォール」ではないという事。
「ウォール」は近未来の管理社会を描いた作品でオーウェルの「1984」的な暗示めいた大作である。詩も音楽も演奏もきちんとまとめられ、まるで映画のように完成された傑作である。この作品は世界中で驚くほど売れまくり短期間の販売実績では彼らの最高作である。しかし現在はほとんど売れていないし論じられない。それに対して「狂気」は地味に売れ続け発売から20年近くアメリカのチャートに入り続け現在も新企画のバージョンが売り出されたりしている。「ウォール」が過去になったのに対して「狂気」は現在であり続けているのだ。
「狂気」というアルバムは完成度の低い理解不能な作品である。全体を貫く主題も無いし、理由めいた物が何一つ無い。思いつきのようなフレーズや感性に頼った効果音、不可解な詩。まともに論じる事のできないような作品だ。しかしスケールの大きさを感じずにはいられず吸い込まれるように聴き入ってしまう。「ウォール」が頭脳を通して入ってくる作品なら「狂気」は直接心に訴えかけてくる作品だと思う。
人間は理性というケースで欲望を包みながら生きている動物で、ほとんどの人は生活の九割を理性的に生きている。そうした人が芸術作品を論じる時に完成度を基準にするのは当然の事だと思う。しかしそんな理性的な評価を下している人にも口には出せないような本心が存在しているのである。
自己矛盾に苦しみ、いびつな感情を持てあまし、反社会的な欲望に悩まされる、という経験は誰にもあることだろう。
だから理屈に合わない感情、雷に打たれたようなひらめき、それらを創作の中で突如として表現できるなら、それこそが人間の本当の姿なのではないか?全体の流れを突如として分断するような感性こそ作品の息吹であり傑作の条件なのだ。
「美人は三日で飽きるがブスは一生飽きない」と言う言葉がある。ここでいう美人はおそらく容姿端麗だけの意味ではない。良妻賢母でそつなく女をこなせる人のことだろう。だからブスというのは何処かぬけている人のことだと思う。その不完全さの中に人間としての感性が隠れているのだと思う。
人は誰も完璧など求めていないのかもしれない。

NO.32「懸賞」 2005−2−22
よく店で話題になるのは懸賞のこと。異口同音に「なかなか当たらない」。
私もいくつか応募した事はある。しかしまったくといっていいほど当たらない。高校生の時にコカコーラの懸賞に応募して桑田圭祐とホール&オーツのビデオが当たったのともう一件だけだ。コーラの懸賞は実家が商売をやっていた関係で空き缶を大量に集められる利点があり、100通くらい送ってやっと二つ当たった、というもので素直に当たったとは喜べないような当選だ。
そしてもう一件。私が高校生のときFMを頭につけたオーディオ雑誌がはやってた。FMステーション、FMレコパル、そして私が愛読していたFMファン。FMファンはマイナーな雑誌で私以外に定期購読している者は近くにいなかった。まず地味で良心的にハードな内容。つまり上級者向けのオーディオを紹介したり、クラシックの奏者のインタビューを乗せたりしていた。ロックマニアの高校生が見て楽しい雑誌では無かったのだ。実際私はほとんどの記事を読まなかった。しかしFMファンはビルボードというアメリカの権威あるヒットチャートを細かく載せていた。これが魅力的だったのだ。その他のいかなる雑誌もビルボードチャートを100位まで出してはいなかったから。
そのFMファンは毎号最新レコードを20名くらいにプレゼントしていた。当時レコードを買うために小遣いをやりくりしていた私には魅力的な懸賞であったことは言うまでも無い。
官製はがきに応募券を張りアンケートに答える。意見の欄では心にも無い褒め言葉を書きまくった。一度も読んだ事の無いエッセイのコーナーも、さも毎回楽しみにしているように書いた。わらながら気恥ずかしくなるような、まるでラブレターのような内容だった。まともに読んでないから褒め言葉も的外れだったのだろうか、何度送ってもレコードは当たらない。10連敗くらいして腹が立ってきた。「つまんねぇ雑誌のくせになんだと思ってるんだ」
私はヤケになって当たりハズレを考えずに思いのたけをぶちまけて応募した。罵詈雑言といってもいいくらいの内容だった。「クラシックのインタビューばっかりするな」「読み物が硬すぎる。文学じゃねえ」「もっとカラフルにしろ」「ビルボードチャートはそのままでいい」
するとおかしな事に当選してジョン レノンのレコードが送られてきた。
17の私はそこで空虚なお世辞がいかに無意味かを知る事が出来た。愛想笑いは眼力のあるものには通用しないのだ。その反動か素直になり過ぎた私は我がままと呼ばれ、仲間内でやっていたバンドを次から次へとクビになったのであった。大人になった現在は確固たる信念を胸に、中道を歩こうと努力している。

NO.30 「スクール オブ ロック」 2005−01−01
この作品は昨年のゴールデンウイークに日本で公開された。
ロックンロールとは何の関係もないショーン コネリー主演の「ザ ロック」にも反応してしまうほど「ロック」という単語に敏感な私は当然この作品も注目していたが「ウエインズ ワールド」みたいなモンだろうと馬鹿にして劇場にはいかず、後々Wowwowでチェックすればいいくらいに思っていた。
それが間違いだった・・・・
昨年の終わりにDVDを借りたら、あまりの素晴らしさに二週間毎日見続けてしまった。一旦返却したものの再び借りて毎日見ている。買った方が早い・・・
ストーリーを紹介したら馬鹿馬鹿しすぎて見る気もうせるだろうからここは敢えて書かない。とにかくロックが好きなら観るべきだ。しかし中途半端なロック好きなら見ないほうが良い、理解を超えててきっと怒り出すだろうから。
主人公を演ずるジャック ブラックは本当にロックマニアらしく、演技を超えたリアルなアクションや表情は本物を愛している者には「痒い所に手が届く」といった感じだ。劇中の挿入曲もブラック サバス、ドアーズ、パープル、ツェッペリン、AC/DCなど70年代ロックマニアにはたまらない選曲がなされている。とくにAC/DCには思いいれも深いらしく、使用するギターも衣装も同じである。ちなみに「ロック魂」とはAC/DCの初期の名盤の一つである。素晴らしい。こんな素的な映画を作るなら是非一言私に声を掛けてもらいたかった。
DVDには解説書もついていてあの伊藤正則が書いている。伊藤氏といえば80年代の日本にハードロックを一般化させた大功労者である。80年代初期、日本には人脈、知識とも伊藤氏を超える人物がいなかった為にハードロックの系のレコードのライナーはほとんど彼が書いていた。しかしその膨大な量が故、文章は荒く内容も陳腐だった。「大英帝国の切り札」とか「泣くがいい、ああ、泣くがいい」などのプログレッシブ ロックを思わせる無駄な誇張表現がお得意で、高校生の私はよく騙されたものだった。彼のおかげで貴重な小遣いをいくら無駄に使ったものか・・・
しかしこの解説書の伊藤氏は20年前とは別人のように冷静で重みのある文章を書いている。まさに映画の強力な後押しとなる解説だ。今後も贖罪のつもりで冷静なロック評を書いてもらいたい。
私は常々ロックはKissとAC/DCに集約されると思ってきた。一つはド派手なパーティーロック。そうしてもう一つは単純で馬鹿馬鹿しいロック。女にモテたい、反抗したい、はロックの二つの大きなエネルギーであると思ってきた。それをふまえて主人公のセリフを引用して締めたい。
「規則を破り、大物を怒らすのがロックだ」
正しくは無いが間違ってもいない。幼稚な意見もロックならではだから。

NO.29「悩める往復書簡」 2004−12−1
これは今年の夏、私と友人タカシとのメールの一部だ。
私ー36歳。二児の父。ロックマニア。居酒屋経営。
タカシー40歳。二児の父。ロックマニア。ギタリスト。伊勢崎町でショットバー経営。
二人とも趣味で楽器を弾き不定期にバンド演奏を行っている。10月に行う予定のタカシの主催するライブイベントに誘われた私だったが・・・


「7月にハーモニーホールでライブをやったんだが様々な要因が重なって大失敗した。そしたらみんなやる気をなくして俺とドラムしかいなくなった。俺はパンクは嫌いだがパンクみたいに演奏するのは好きなのだ。メロディのある曲を荒っぽく演奏するスタイルが好きだ。でもそれは俺の暴走に映るらしい。ということでバンドがなくなったからライブはねぇ・・・」
タカシ
件名 無し
「やはり俺が恐れていた現象が起こっているな。(笑)お前節炸裂か。荒っぽいのとメチャクチャは違うぞ。録音したテープかMDないの?」
件名 無し
「今度MD持ってくよ。ただ、理想と現実が違うのはよくあることでそれはそれでいいんだけど、バンド活動に対してそれほどの努力もしてないし強い上昇志向もないから、理想に反する現実に立ち向かう元気が無いんだ。
やっぱ10月のライブはキャンセルさせてもらうよ」
件名 無し
「上昇指向なんて俺だってないよ。(^_^;)実は去年の暮れにやったライブでコケて(マジでヒドかった)、ひどく落ち込んだが、3週間で立ち直った。開き直ったね。ロックバンドをやるって事はマジックを見つける為の旅なんだよ。目に見えないものを捕まえる為に必要なのは精神的なモチベーションと最低限の技術だ。つまり一発目の音を出す前に勝負はついているんだ」
件名 深夜放送
「ダメな自分に直面すると落ち込む。それを打開する為にはじっとしていてはいけない、しかし動けばもっと傷つくかも、なんて事の繰り返しだ。
「俺もダメだったぜ」はダメ人間に勇気を与える言葉だ。前回の失敗はあらゆる負の面が集まったと言える。これも勉強だな。こんな文面はまるでセイヤングみたいだぜ」
件名 無し
「まったくだ。イヤホンで聴く文化放送、深夜3時…
店をやってると、いろんな人間に逢う。人格者、紳士、仕事の出来る奴、人望の厚い奴、心優しい奴、等々…そういう評価をされている人間がたくさんいるが、つまらん話だ。確かにそういう評価に値するものを彼らは持っている。しかし人間、そんなに平坦な生き物じゃない。カウンターの中にいる俺は、同時に彼らの演技や心の闇も知っている。最近、こういう事があった。皆に紳士と呼ばれている人が、俺の娘について性的な発言を繰り返していた。それも2年間程。許せん。最初は俺も流してたが、何度たしなめても変わらないので、俺もついにキレた。何が言いたいのかと言うと、人間 目クソ鼻クソだっていう事。大統領もホームレスも大して変わりゃしない。飲み屋をやってると哲学を学べるぜ。(笑)  深夜放送はこの位でやめにするか」
件名 タカシのオールナイトニッポン
「でも、こういう仕事は沢山の人に接するから色々あるわな。
俺も今月、あるお客さんを注意した。しかし相手に対しては悪いと思わない、怒らせるような事をしているのだから。ただ方法として怒り以外の解決策が無かったかを反省している。こういうことは師の大橋氏が得意だが俺はまだまだ未熟だ。
私生活でも色々ある。家庭問題もある。これだけたくさん学んで俺はどこへ行くのだろうか?
俺の様々な経験はどこかに向っているのだろうか?使い捨ての経験なら意味が無いのだろうか?
俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか?
先生、あなたはか弱き大人の代弁者なのか?
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった (尾崎)」
件名 ラジオ短波
「確かに上手なかわしかたはある。それが出来る人間もたくさん知っている。しかし俺には無理だ。そういう意味では俺はプロではない。我が道を行くよ。偉大なアマチュアを目指してやる」
件名 加藤芳郎のお悩み相談室
「35歳 自営業 既婚者 ノイローゼシンガー 
自分には無理かな、と思っていても「無理だ」と言い切ると進歩がないような気がします。自分の未知な部分に挑戦するのが成長であり、人生だと思います。
先生はいかがお考えですか?山本晋也氏の回答を希望いたします
件名 おもいっきりテレビ
「自分が正当だと思う道を選べばいい。そのかわり、間違ってたと気付いた時には素直に謝ればいいんだ。窓ガラスを割っちゃいけないぜ。ベイビー!
いいんじゃない。やってみなさいよ、奥さん!そんなダンナとはわかれちゃいな。わかった?
ところで家庭問題って、結婚が人生の墓場だっていうのが少しは分かったのかい?それが分かれば一人前だ」
件名 クーリング オフ
「ごめん、愛し合ってる」
件名 返品
「ふざけんな!」

みんな悩みを抱えているらしい?

NO.28「立花 隆の書評」 2004−11−24
「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」 文芸春秋社刊。2001
を読んだ。私は立花氏の大ファンなので大まかな彼の著作は読んでいるが、この本は彼にしてはめずらしい随分と長ったらしいキレの悪いタイトルである。読書術と謳っているものの入門書ではない。始めの数ページにプロローグ的に彼の読書技術をさらっと紹介しているだけで、それだけ読んでみただけでは驚異ではないが、本文を読み進んでいくと本当に驚かされる。
この作品は彼が週間文春で月一くらいで連載している書評のコーナーをまとめたものである。紹介されている本はざっと250冊。その種類も多岐にわたり歴史、科学、文学、風俗、政治、哲学など。簡単に読めそうなものもあるが難易度の高い本もかなりある。
私といえばその250冊中、一冊も読んだ本が無かったし著者の八割を知らなかった。これは恥ずかしいというより悔しかった。「世界はこんなに俺の知らない事だらけだったのか」と。
立花氏がこれだけ短期間に本を読めるということは、その頭脳が明晰である事は言うまでも無い、それと同じくらいに好奇心もかなり旺盛なのだと思う。
モノを知りたい、という欲求は性欲、食欲などと同じく人間の本能ではあるまいか。古代の哲学や歴史、文学を知らなくても生活には困らないが、知っている方が生活に幅が出る事は間違いない。生命維持とは関係ないものさえ本能になるのは人間特有のことだと思う。
何百年も前に死んだ人の思想をたどったり、有名政治家の告白を聞いたり、生命誕生の秘話を知ったりする事は自分の中の白地図に少しずつ地名を入れていくようで、精神の高揚を感じる。
専門家が一生かけて知りえた真理をわずか数ページで知る事ができるなんて、読書は時間を超え国境を越える無限の旅だ。
ところで知の象徴である図書館だが綾瀬市のはあまりにもお粗末すぎる。貸本屋以下の低レベルの本置き場だ。あれが綾瀬の知の象徴なら情けなくなる。隣接する市庁舎があまりにも華美なためにその酷さが一層際立っている。改革の必要があるのは言うまでも無い。

NO.25「一流になる人 二流でおわる人」 2004−10−18
1999年 至知出版。米長邦雄 野村克也 共著。
将棋、野球でそれぞれ一流を極めた人による人生訓のような本。米長氏が進行役のような形で交互に意見を述べ合っているが対談ではない。本としては構成が雑で不完全だ。それは主題が絞りきれておらず思いつきに近い形で話が進んでいる点と、意見の交換が発展していかない点。しかし話されている内容はさすがに素晴らしい。赤線を引いてしまいたいくらいに造詣の深い言葉が出てくる。
例を挙げる。
「集団はリーダーの資質以上にはならない」と野村氏。置き換えるなら店主の資質と客層は似てくるということか。
敗戦をどう捉えるか?という命題に対して米長氏は「忘れる事。悪いイメージを残さない為に、思考をプラスに持っていくために忘れる」と言う。対して野村氏は「徹底的に反省する。敗戦は教訓の宝庫である。終わった勝負を後ろ向きに振り返るとコンプレックスが募り、気持ちが沈む。しかしそれは反省ではなく後悔である。反省は前に向って、未来に向ってするものだと思う。」
野村氏の思考の明確さがハッキリ出ていて、彼が暗いといわれていることが単なるイメージでしかない事がわかる。一方この発言を米長氏はあっさり認めてしまっているが、30年も一線でやってきた勝負師ならうまい反論をしてもらいたかった。その反論から新しい意見が生まれるかもしれないのに。
上記の野村氏の言葉を自分の仕事に重ねてみるとこうなる。
お客さんに満足してもらうのがサービス業の定めである。うちの店なら出した料理をすべて食べて貰える事が最低限だ。しかしそうもいかない。だから私はお客さんが残した物は食べるようにしている。たいがい何も問題は無いのだがたまに塩加減などが雑な時がある。または焼き方が完璧でない時もある。見ただけではわからないモノがそこにある。
また、掃除の時座敷やカウンター席に座ってみる。いつも仕事をしている位置では気付かないモノが見えたりする。
野村氏の言う徹底的な反省とは程遠いだろうが、自分の向いている方向が間違っていない事が確認された。
最後にこの本のタイトルだが、あまりにも酷すぎる。うだつのあがらないサラリーマンが手にしそうな陳腐の極みのようなタイトル。おそらく出版社のアイデアだろうがタイトルが三流であることが笑いを誘う。私が野村氏のファンでなければこんな名前の本は手にしないだろう。

NO.23「リターン マッチ」 2004−9−1
後藤正治の1994年のノンフィクションの本。
著者は数々のノンフィクションの賞を受賞するなど、その力量は周知の所である。著作にはボクシング関連のものも多く「遠いリング」という大阪のグリーンツダジムを描いた作品は出色の出来であったと思う。
この作品は兵庫のとある定時制高校のボクシング部の記録である。一人の熱血教師の情熱がよく伝わってくる。しかし作品としては三流である。まず取材が雑。ノンフィクションで最も大切な取材が行き届いておらず、後追いのような書き方も幾つかあった。それにとりたててドラマも無い。主人公の教師が一冊の本になるほど魅力的かといえばそうとも思えない。とても個性的であるのは認めるが、だから?という疑問はぬぐいえない。定時制高校の魅力も本質も曖昧でボクシングの描き方も中途半端である。上記の「遠いリング」はツダジムの会長の魅力がほとばしり、ボクシングの素晴らしさが伝わってきたものであったが、この作品には残念ながらそのような感動は無い。
ではなんでこの本をここで取り上げるかといえば、主人公の脇浜という教師の次の言葉にひどく感銘を受けたからだ。そこで一部を作品中から抜粋する。
「何故ピンポンをやるのか?は質問になりにくいが、何故ボクシングをやるのか?は質問になる。それだけこのスポーツには人生臭さが漂う。・・・人生の方がボクシングに似ているのかもしれない。・・・苦痛、ストイシズム、克己、過酷さ、単調、当たらないパンチ、一瞬の油断で食うパンチ、恐怖、逃したチャンス、など等無数のメタファーや文学的比喩で語ることが出来る。・・・・闘争がボクシングと人生の最大の共通項だと考える人は多い。しかしリングで闘う二人は・・・闘い終わったら抱き合って尊敬と感謝の気持ちを表明する。これは人生の闘争には無い事だ。・・・それに初心者とチャンピオンが闘うようなミスマッチも無い。これに対し、人生の闘いはほとんどミスマッチだ。ほとんどがアンフェアでダーティーな闘いだ。・・・裸の自分が残酷なまでに暴き立てられる。・・・人生が楽しいかと尋ねられて答えられないように、ボクシングが楽しいかと尋ねられたら答えられない。・・・コーチしているときは、苦しい時はあっても、楽しい事は絶対にない。・・・これは楽しむスポーツでない事は確かだ。・・・自己に挑戦する作業という