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関連リンク先:京秋三昧
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、
盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、
唯春の彼の夢の如し。………
と美しく書き出してあるが、更に読み進むと祇王祇女の事が出て来る。これは平氏全盛の頃、平清盛と二人の
女性の哀れな物語である。
その頃、都に聞えた白拍子の上手に祇王、祇女と言う姉妹があった。近江の国野洲江辺庄の生れ。父九郎時定は、
江辺庄の庄司であったが罪があって、北陸に流されたので、母と共に京都に出て、白拍子となり、
のち姉の祇王が清盛の寵を得て、妹祇女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、安穏に暮していた。
或時清盛が舐王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祇王は、自分の生国は水の便が悪く、毎年早害を受け、
一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて戴きたいと願った。清盛は早速、野洲川から三里
の溝を堀らせ水を通したた。里人はこれを徳とし溝を名づけて、祇王井川と呼び、今に至っている。
所がここに加賀の国の者で、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて清盛の西八条の館に行き、舞をお目
にかけたいと申し出た。
清盛は、神ともえ、仏とも言え、祇王があらんずる所へは叶うましきぞ、とうとうまかり出でよと門前払いを
したが、祇王が、やさしく取りなしたので、呼び入れて、今様を歌わせることにした。仏御前は、君を初めて
見る折は、千代も歴ぬべし姫小松御前の池なる亀岡に鶴こそ群れいて遊ぶめれと繰り返し三べん歌ったが、
声も節も頗る上手だったから、清盛は、たちまち心を動かして仏御前に心を移した。
昨日までの寵愛は何処へやら、祇王は館を追い出されることになった。せめてもの忘形見にと、
崩え出づるも枯るるも同じ 野辺の草
いずれが秋に あわではつべき
と障子に書き残して去って行く。
あくる春になって清盛は仏が退屈しているから、舞を舞って仏をなぐさめよと使者をよこすと、祇王はもとより行く気は無かったが、清盛の権勢と母の哀願に抗しかね、館に行って、仏も昔は凡夫なり、われらも遂には仏なり、
いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれと歌い舞った。並み居る諸臣も、涙を絞ったと言う。
祇王は、「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祇王二十一、祇女十九、
母刀自四十五の三人、髪を剃って尼となり、嵯餓の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。
母子三人念仏している所へ竹の編戸を、ほとほとたたく者がある。出て見ると、思いもかけぬ仏御前であった。
祇壬の不幸を思うにつれ、いずれか秋にあわで果つべき、と書き残された歌を誦するにつけて、無常を感じ、
今朝、館をまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれと被っていた衣を打ちのけるを見れば、剃髪した尼の姿で
あった。わずかに十七にこそなる人の、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ、と四人一緒に寵って朝夕の仏前に
香華を供えて、みな往生の本懐を道げた。
(「祇王寺」拝観案内より)
天龍寺
京都五山の第一位であるこの寺は、霊亀山天龍資聖禅寺といい、暦応二年(1339)に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇の霊を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐
山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのが創まりである。
天皇が幼少の頃を修学に過ごされた地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰さめるこ
とも、この寺の開創の目的であった。
曹源池は、優美な王朝の大和絵風の伝統文化と、宋元画風の禅文化とが巧みに
融け合って、独特の美しさを完成しているのが、夢窓国師作庭の曹源池庭園で、嵐山、亀山などを巧みに
取り入れた借景式庭園として、わが国では始めて特別名勝に指定され、廻遊式庭園としても最も古い遺構である。
池の前庭は洲浜形の汀や島を配して、砂の白と松の緑がきわ立ち、大和絵さながらの味をみせ、
池の奥の山ぎわに岩石を組んで遠山渓谷を現わし、渓流が池におちる滝口に巨岩を二段に立てて滝の
落ちるさまにかたどり、これに鯉魚石を配して登龍門の故事になぞらえている。
その前の自然石の橋、ご三尊形式の岩島、亀山の松かげをうつす水面に浮島のように頭をもたげた
岩のたたずまいなど、いずれも嵐山の遠景と共に、四季を通じて絶讃されるところである。
(「天龍寺」拝観案内より)